覚え書:「危機の真相:今年の漢字1文字 「安」は何の「安」?=浜矩子」、『毎日新聞』2015年12月19日(土)付。

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危機の真相
今年の漢字1文字 「安」は何の「安」?=浜矩子

毎日新聞2015年12月19日
 2015年を漢字1文字で表せば「安」ということになった。日本漢字能力検定協会が毎年行う公募調査の結果だ。安倍晋三首相の「安」。安保法制の「安」。異常気象やテロがもたらす不「安」。これらを理由に多くの人々が「安」を選んだのだそうだ。

 こんな具合の「安尽くし」になってしまうと、少しばかり「安」の字が嫌いになりそうだ。こんな「安」は、今年いっぱいでもう十分。年が明けたらおさらばしたい。そんな思いで、皆さん「安」を選ばれたのだろうか。

 そういえば、恒例に従って「安」の1字を快筆された清水寺森清範貫主も次のように語られたそうだ。「今年の不安を払拭(ふっしょく)して、来年は安心安全な社会をつくっていこうという総意ではないか」

 確かに「安」は安心安全の「安」だ。そして平安の「安」であり、「安寧」の「安」であるはずだ。それなのに今年はなんとも異様な「安」が勢ぞろいしたものである。

 「安」に次いで、2番人気を博したのが「爆」。3番手が「戦」だった。「爆」は爆買いの「爆」だ。中国からのお客様たちの爆発的購買力。これが日本人を驚嘆させた。「爆」に今年の世相をみた感覚は、よく分かる。

 3番目に「戦」が来たのが怖い。怖いが、これまたよく分かる。忍び寄る戦争の影。それを多くの方々が感じ取られたというのは誠に心強い。この市民的感受性が貴重だ。世の中がねじ曲げられようとする時、この感性が頼もしい矯正力を発揮してくれる。

 今年に関する「安」と「戦」の選択は、連動していると考えていいだろう。どちらを選ぶか。迷われた方も多かったのではないかと推察する。「安」がもたらす「戦」。こんな構図の出現を心配しなければならないというのは、何ともおぞましい。確かにそんな状況とは今年いっぱいでおさらばしたくなってくる。

 こんな調子で思いを巡らせていると、さらにどんどん「安」の字が嫌いになっていきそうだ。この心理状態で「安」を眺めていたら変なものがみえてきた。この漢字、女の上にフタをしようとしていないか。女を上から抑えつけようとしていないか。

 これはけしからん。いったんは、そのように気色ばんだ。だが、よく考えてみれば、抑え込もうとする圧力の対象になるというのは、それだけ強い存在だということを意味している。強いから、相手が脅威を感じる。脅威を感じるから、抑えつけようとする。つまり「安」は女子力のパワーを表現した1文字だというわけだ。これで少し「安」の評価が立ち直ってきた。

 この発想の流れに身を任せると、今度は「安」は女が天井を支えている構図のようにみえてくる。女がいなければ、天井が落ちる。天井の落下を防ぐ役割が、強き女たちの双肩に託されている。

 天をその双肩で支えるといえば、それは、ギリシャ神話に登場するアトラスのイメージだ。もっとも、アトラスの場合は、オリンポスの神々との戦いに敗北したために、この役割を押し付けられた。その意味では少々情けない。だが、いずれにせよ天空を恒久的に支えて揺るがないその力は、やはりインパクト満点だ。そのイメージで「安」をみれば、この文字が女性たちのみなぎる力、ほとばしり出る強さの象徴にみえてくる。

 この人がいなければ、天が陥没する。この人がいなければ、全てが崩れる。実際に、そういう女性が今の世の中に存在する。その人の名はアンゲラ・メルケル。ご存じのドイツ首相である。

 英エコノミスト誌は11月7日号でメルケル首相を表紙に掲げた。決然たる表情の彼女の大首絵だ。その脇で「最も必要不可欠な欧州人」の見出しが誌面を横切る。英経済紙フィナンシャル・タイムズも彼女を「今年の人」に掲げて大きな特集を組んでいる。

 今や欧州連合(EU)内の全ての決定に関しては、生かすも殺すもメルケルさん次第。事実上そうなっている。その彼女が押し寄せる難民の受け入れ姿勢を断固として保持している。逆風は厳しい。だが、揺るがない。今、自分のバランス感覚がいかに決定的重要性を帯びているか。そのことが彼女には実によく分かっているようだ。

 皮肉なものだ。EU内の単一通貨圏であるユーロ圏は、ベルリンの壁崩壊後のドイツの力を封じ込めるためにつくられた。ところが、このユーロ圏の存在が結局のところドイツの力を突出させてきた。この意味をメルケルさんはとてもよく承知している。

 決して、強権的にみえてはいけない。だが、いざという時には、明確に判断しなければいけない。この超絶技法的お手玉を、彼女はじっくり、着実にこなしてきた。今、欧州に彼女がいて良かった。欧州のこれからは、まさに、この人の双肩にかかっている。

 統合欧州のアトラス。それがアンゲラ・メルケルだ。この人の名前、実は「安」ゲラ・メルケルと書くのかもしれない。これで「安」の格もかなり上がった。

 ■人物略歴

はま・のりこ

 同志社大教授。次回は来年1月16日に掲載します。
    −−「危機の真相:今年の漢字1文字 「安」は何の「安」?=浜矩子」、『毎日新聞』2015年12月19日(土)付。

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