覚え書:「ストーリー:『阪神』きょう21年 二つの大震災、結ぶ」、『毎日新聞』2016年01月17日(日)付。

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ストーリー
阪神」きょう21年(その1) 二つの大震災、結ぶ

毎日新聞2016年1月17日 東京朝刊
 小名浜港から吹き込む潮風が肌を刺す。福島県いわき市の沿岸部に建つ「県営下神白(しもかじろ)団地」。東京電力福島第1原発事故の影響で同県双葉郡のうち富岡、大熊、浪江、双葉の4町の避難住民が暮らす災害復興公営住宅だ。「また来ましたよ」。昨年10月下旬、阪神大震災で被災した高齢者らを21年間支援しているNPO法人「よろず相談室」(神戸市東灘区)の理事長、牧秀一(しゅういち)さん(65)が、今井幸夫さん(66)宅を訪ねた。妻の富貴子さんは認知症で要介護5。今井さんが1人で介護していた。

<その2>「阪神」きょう21年 やり場なき声、耳傾け
 「団地を出ることを決めたよ」。会うなり、今井さんは声を絞り出した。いわき市内の介護施設近くに土地を購入し、2017年にバリアフリーの家を新築するという。東京電力の賠償金を充てる。

 自宅は富岡町の帰還困難区域にあり、いつ戻れるのか、めどが立たない。復興住宅には昨年3月に入ったばかりだが、段差があってトイレへの手すりもなく、風呂も妻を介助して入浴させるには狭すぎた。

 下神白団地に入居する約200世帯のうち、39世帯が1人暮らしの後期高齢者(75歳以上)だ。乳幼児は4人、小中学生はゼロ。子どもの遊ぶ声は聞こえない。牧さんは、福島県から委託を受けて復興住宅のコミュニティーづくりをするNPO法人「3・11被災者を支援するいわき連絡協議会」に協力し、昨年5月から毎月、通っている。

 誰にも打ち明けられず苦しんでいたのだろう。今井さんは、聞き役に徹した牧さんに話し終えると表情を和らげた。神戸への帰途、牧さんは暗たんとした気持ちになった。震災から5年がたとうとしているのに故郷に帰れない人々。復興住宅の鉄の扉の向こうで、孤独感を募らせていた阪神の被災者と重なった。

 年明けの今月3日、富貴子さんが亡くなったという。78歳。新居に移ることなく、復興住宅が「ついのすみか」となってしまった。17日で発生から21年の阪神と、5年を迎えようとする東日本。二つの被災地で、固く閉ざした被災者の心を優しくノックする牧さんを追った。<取材・文 桜井由紀治><4面につづく>
    −−「ストーリー:『阪神』きょう21年 二つの大震災、結ぶ」、『毎日新聞』2016年01月17日(日)付。

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ストーリー
阪神」きょう21年(その2止) やり場なき声、耳傾け

毎日新聞2016年1月17日 東京朝刊
<1面からつづく>

<その1>「阪神」きょう21年 二つの大震災、結ぶ
 ◆阪神の教訓、東北の高齢者に生かす

「独りじゃない」伝え

 「被災者が復興住宅に移ってから、さまざまな問題が起きる」

 2013年秋、神戸市のNPO法人「よろず相談室」理事長、牧秀一(しゅういち)さん(65)の姿が福島県いわき市にあった。NPO法人「3・11被災者を支援するいわき連絡協議会」(愛称・みんぷく)の事務局長、赤池孝行さん(60)に阪神大震災の教訓を伝えていた。

 阪神では、仮設住宅のコミュニティーを分断し、独居高齢者を災害復興公営住宅に優先入居させたため、復興住宅の高齢化率(65歳以上)が5割を超えた。誰にもみとられずに亡くなる孤独死は累計897人を数える。「独居高齢者は『次は自分の番か』と、生きることに恐怖を抱いている」。牧さんは、くしの歯が欠けるように隣人が亡くなり、自治会の運営もできない阪神の現状を伝え、「元々高齢者が多い東北は、数年後には阪神と同じになる」と警告した。

 「みんぷく」は14年10月からの5年間、福島県に委託され、復興住宅に入居する原発事故の避難者のコミュニティーづくりを支援する。その一つ、下神白(しもかじろ)団地(いわき市)は約200世帯のうち約80世帯が60歳以上の1人暮らしだ。阪神同様、入居時に住民同士で知った顔はない。しかも、住民と接する「コミュニティ交流員」は、臨時雇用の“素人集団”でもあった。みんぷく幹部はノウハウのある牧さんを頼り、「3年間、いわき市に単身赴任してほしい」と持ちかけた。牧さんは断ったが、神戸から月1回訪問することを約束。昨年5月から福島市福島県郡山、いわき両市の復興住宅に関わっている。

 下神白団地の集会所では週2回、住民が寄り合う喫茶が開かれる。「マスター」は同県富岡町出身の渡辺貫一さん(68)。「仮設住宅でやっていた」と買って出た。みんなの笑顔を見るのがやりがいで、毎週末、磐梯山のふもとまで車で2時間かけてコーヒー用の湧き水をくみに行く。喫茶には1日平均約40人の住民が訪れる。しかし、認知症の妻富貴子さんの介護をしていた今井幸夫さん(66)が、談笑の場に現れることはなかった。妻をデイサービスに預ける週2回、その間だけは自分の時間が持てた。買い物をしたり、周辺を散歩したり。

 「一人になっていろいろ考えたいんだよ。これからどうしていったらいいのかとか。言うことを聞かない母ちゃんを怒ってしまって、悪かったなと反省してみたり」。今井さんは、神戸から訪問を続ける牧さんにそう話していた。

 震災前、富貴子さんは普通に家事をこなしていたが、原発事故で一変した。車の中で数日過ごし、避難所の冷たい床で寒さをこらえて体調を崩した。仮設住宅にいた頃は要介護3で笑顔も見せたが、下神白団地に移ると、判定が2段階上がった。「環境がころころ変わったのが、よくなかったんだろうな」。妻の介護に心が折れそうな時もあった今井さんだが、妻はもういない。葬儀を今月9日に済ませたという。牧さんは「いわば震災関連死。原発事故がなければ、夫婦は幸せに過ごしていただろうに」と悼んだ。

 阪神と同じ現象だった。住民が集う喫茶は大切だが、同じ顔ぶれになりがちだ。自宅に引きこもる多くの人たちこそ問題を抱えていた。寂しく、孤独な人ほど声を上げられないことを牧さんは知っている。「訪問を増やし、部屋から出ない住民の声に耳を傾けよう。このままでは阪神の教訓が生かされない」。みんぷくのコミュニティ交流員リーダー、渡辺繁伸さん(57)に改めて伝えた。

 牧さんにとって、被災者に寄り添う訪問は活動の原点だ。阪神大震災では神戸市東灘区の自宅に近い小学校が避難所になった。定時制高校教諭だった牧さんは、休暇願を出してボランティアに専念し、義援金の受け取り方など必須の生活情報を伝えるB4判の「よろず新聞」を作って配った。自宅を失い、うちひしがれた被災者の声に夜遅くまで耳を傾けた。避難所が解消された後も、仮設住宅、そして復興住宅へと転々とする被災者を追って、寄り添った。

 安否の確認だけでなく、部屋に上がり、5分だけでも話を聞くよう心がけている。独居の高齢者は何よりも自分の話を聞いてくれる相手がほしい。孤独が癒やされ、楽になれる。別れ際は「また来るからね」と約束する。それは「独りではないよ」というメッセージだ。牧さんは21年間、このスタイルで被災高齢者と接し、信頼関係を築いてきた。

 東日本の被災者を支援するようになったのは、宮城県石巻市の避難所にいた高齢女性との出会いがきっかけという。発生1カ月後に被災地に入り、被害のすさまじさに圧倒された。神戸に帰る途中、立ち寄った避難所に、高橋てる子さんはいた。何もかもを津波に流され、独り途方に暮れていた。「本が好き」と聞き、神戸から司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を送った。

 高橋さんのことが気になり、仮設住宅に移った後も牧さんは会いに行った。日々を大切にするために書いているという日記は、牧さんが来た日に赤い花丸が記してあった。別れ際、「牧さん、握手しよう」と言われたことがある。両手で牧さんの手を握ると、高橋さんはしばらく離そうとしなかった。

 14年11月、牧さんが仮設住宅を訪ねると、高橋さんは入院していた。見舞いに現れた牧さんを見て、高橋さんの表情がぱっと明るくなったのが分かった。「元気になって仮設住宅に帰っておいでよ」。高橋さんはうなずいたが、その1カ月後に訃報が届いた。84歳だった。

次世代へバトンつなぐ

 牧さんの姿勢は、教諭として37年間勤務した定時制高校時代に培われたのだろう。私が牧さんを知ったのは6年前。知的障害のある長男(21)が、牧さんの学校に入学したことが縁だった。対人関係が苦手な長男は入学早々、同級生を殴ったとして2週間の停学処分を受けた。数日後、クラスの副担任をしていた牧さんが家庭訪問に来た。暴力を振るったという長男を叱るのかと思いきや、違った。にこやかに見つめるだけだった。

 定時制高校の門をくぐる生徒には、自分を理解してもらえない社会に生きづらさを感じ、苦しみ、やり場のない怒りを抱えている若者もいる。この教師は上辺だけで自分に接しているのか、とことん向き合ってくれるのか。じっと観察する。牧さんは後者だった。「家庭訪問を重ね、生徒と親に内面を教えてもらっている」という。人の痛みに寄り添える牧さんの周りには生徒の輪ができていた。

 定年退職後も、牧さんは就職できない長男を心配して「良い職場があるので、会いに行きませんか」と連絡してくれた。自分が関わった人間を放っておけない性格。「しんどくて、何度もボランティアをやめよう」と思いながら「自分を待ってくれる人がいるから、やめられへん」。

 阪神大震災後の21年は、もがきながら牧さんが積み上げた歳月ともいえる。

 よろず相談室はかつて、阪神大震災の被災地の約130世帯を訪問していた。被災高齢者の死亡や入院により、今は30世帯を切る。多くの被災高齢者の葬儀に出た。参列者が2人しかいない葬儀もあった。「この人は死んでも孤独なのか、楽しいひとときはあったのか」と幾度も考えた。疲れ果てた高齢者が、これからの日々を有意義と思えるために、自分たちは何をしなければならないのか。

 突然の別れに無力感もわくが、非情な現実に何度も直面し、牧さんは、高齢者との別れは避けられないと悟った。今はせめて「今日は楽しかった」と笑える日々を重ね、思い出を抱いて人生を終えてほしいと願っている。握った手を離そうとしなかった高橋さんはどうだったろう。あの手のぬくもりを感じながら思いをはせた。

 昨年12月、神戸市東灘区で「よろず相談室なかまの集い」が開かれた。牧さんが関わってきた被災者16人を招いての「忘年会」だ。山本恒雄さん(70)の姿を見つけ、2人は再会を喜んだ。

 阪神の被災地では、経済的な事情などから学校に通えず、被災証明書や家の解体手続きの書類を書けない人も多かった。牧さんと同僚教師は震災翌年、よろず相談室に識字教室「大空」を開いた。障害者・高齢者用仮設住宅自治会長を務めた山本さんは「大空」の生徒だった。幼い頃に患った脊椎(せきつい)カリエスで背中が曲がり、いじめられた。学校に通えなくなり、読み書きを教わらないまま長年生きてきたが、仮設住宅自治会長となり、文字を書けないつらさを痛感した。

 識字教室で習い始めて5カ月、山本さんは仮設住宅に米を配ってくれる女性に生まれて初めて手紙を書いた。一字一字、知らない漢字を辞書で引き、書いては消して2日がかりでお礼の気持ちをつづった。手紙は届くのか、手紙を読んだ女性はどう思うか。不安だったが、やがて返事が来た時は跳び上がるほどうれしかった。その時の山本さんの文章だ。

 <視界が広がったような思いになり、文字が書けるということはこんなに素晴らしいことと初めて知りました。見ても分からなかったカンバンを今は、意識して見るようになり、一つでも分かる漢字が出てくるとうれしくなります。今まで世話になった方々に手紙を書きました>

 生きる自信を持った山本さんに、牧さんは当時勤めていた定時制高校への進学を勧めた。50歳を過ぎての教室。山本さんは数学や英語に悪戦苦闘しながらも高校生活を楽しんだ。卒業式には、識字教室の仲間がたくさん学校に来て祝ってくれた。呼吸器機能障害があり、今は酸素吸入器が手放せない。神戸市北区のケア付き高齢者住宅で暮らすが、山本さんは前向きに人生を見つめる。「震災のおかげで今の僕がある。牧さんがおらんかったら、こうして生きていけんかった」

 年末年始、よろず相談室は神戸市の復興住宅を集中的に訪問した。家族と迎えた正月を思い出すのか、1人暮らしのお年寄りはこの時期、とくに孤独感を募らせる。牧さんは、訪問活動を学びたいという大学生らを連れて訪ねた。

 特別な技術を伝授するわけではない。教えることはただ一つ。「寄り添い、話にじっと耳を傾けること」。訪問販売と間違われ、扉を開けてくれない高齢者に戸惑う学生がいた。牧さんも最初は、「何しに来たん?」と相手にされなかった。ただ、訪問を重ねることで閉ざしていた心を開き、次の訪問を心待ちにしてくれるようになった被災者は多い。

 「みんな苦しい胸の内を聞いてほしいと願っている。被災者とつながっていることが大切で、『独りじゃないんだ』という思いが、生きる力となる」と強調した。「扉を開けてもらったら、前を向いて生きているすてきな女性がいました」。牧さんの元でボランティアをする兵庫県立大2年、一ノ瀬美希さん(20)は、同市東灘区の村上しま子さん(87)との出会いを、そう表現する。

 村上さんは1人暮らしの自宅が全壊し、がれきの中から救助されたが、ショックで字が書けなくなっていた。復興住宅に閉じこもっていた02年、牧さんを通じて東京都の女性から手紙が届いた。「お体に気を付けてください」と気遣う文面に返事を書きたくなり、「大空」に通い始めた。平仮名ばかりの自分の手紙が恥ずかしく、小学生の漢字ドリルで練習した。文通相手の女性が突然、復興住宅を訪ねてきたのは05年のクリスマスイブ。初めて会った。「自分は独りじゃない」。村上さんは玄関先で声を上げて泣いた。今は自分史の執筆に取り組み、「一つ一つ文字を取り戻していくと、生きていてよかったと思える」と言う。

 阪神大震災から21年。風化が懸念される一方で、発生時にまだ生まれていなかった若者が、訪問活動を引き継ぎたいと牧さんの元に集う。「次の災害で、彼らは大きな力になる。次世代につなげることが僕の使命」と期待を寄せる。伝えなければならない阪神の教訓とは何か。牧さんに尋ねた。

 「国や行政は支援制度の期限を区切ってしまうが、被災住民の抱える悩みに期限はない。人は制度で救えない。人は人によってのみ、救うことができる」

 ◆今回のストーリーの取材は

桜井由紀治(さくらい・ゆきはる)(神戸支局)

 1990年入社。一宮(愛知県)、徳島、鳥取各支局員や松江支局次長など主に地方機関で勤務し、神戸支局は2度目。阪神大震災では神戸市東灘区の自宅アパートが半壊し、避難所の設営準備を手伝った。2014年から3年連続で震災報道キャップを務めている。今回は写真も担当した。

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    −−「ストーリー:『阪神』きょう21年(その2止) やり場なき声、耳傾け」、『毎日新聞』2016年01月17日(日)付。

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