覚え書:「今週の本棚:中島岳志・評 『中曽根康弘−「大統領的首相」の軌跡』=服部龍二・著」、『毎日新聞』2016年01月24日(日)付。

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今週の本棚
中島岳志・評 『中曽根康弘−「大統領的首相」の軌跡』=服部龍二・著

毎日新聞2016年1月24日 東京朝刊
 
 (中公新書・972円)

現政権の動向見通す絶好の素材

 自主憲法制定を主張するタカ派でありながら、主張を臨機応変に変化させる風見鶏。中曽根の評価は、現役当時からこの両者の間で分裂してきた。中曽根はいかなる政治家だったのか。中曽根の目指した政治とは何だったのか。

 1918年に生まれた中曽根は、小学校上級生から旧制中学時代に準戦時体制を迎える。政治外交問題に関心をもったのは13歳の時に起きた満州事変。「こんなことをして日本はどうなるのか」と将来を案じた。旧制静岡高校に進学すると、時代は全体主義へとさらに傾斜して行った。しかし、自由な校風に感化された彼は、「ヒトラーに対する評価はゼロ」。リベラルな雰囲気の中、軍部の台頭を不安視する風潮の中にあった。東京帝大に進学後も、時代に対する違和感は継続した。

 しかし、中曽根は自ら国家権力に接近した。1941年4月に内務省に入省。「軍部の台頭に危機を感じつつ、英米流の政治にも疑問を覚えており、国家の統治に携わりたいと考えた」

 入省後、海軍で経験を積むことになり、海軍経理学校に入校。4カ月ほどで卒業すると、そのまま連合艦隊の現場に配属され、パラオで開戦の知らせを受けた。戦場では、多くの部下を失い、凄惨(せいさん)な光景を目の当たりにした。国家官僚として「民衆を不幸にしてはならない」と感じた彼は、戦後、政治家を目指すようになる。「戦後歴代首相のなかで、間近に砲撃を受け、部下を失うなど経験したのは中曽根ぐらいであろう」

 1947年に衆院初当選した中曽根は、吉田茂を批判する急先鋒(せんぽう)となった。吉田は官僚的で、戦前来の政治を踏襲しているように見えた。吉田が首相になると「官僚秘密外交」と批判し、その奔放な発言から「青年将校」と言われた。

 この反吉田という立場が、中曽根のスタンスを規定する。彼は保守本流の吉田・池田勇人らに対して、自らを「革新保守」と規定し、自主憲法制定や自主防衛を説くようになる。一方で、徳富蘇峰と交流を深め、その柔軟な発想に感化される。彼は「風見鶏」であることを、政治家の必要条件であると認識するようになる。「『風見鶏』は足はちゃんと固定している。からだは自由です。だから風の方向が分かる。風の方向が分からないで船を進めることはできません」。ここに政治家・中曽根康弘のフォルムが完成する。

 タカ派と見られた中曽根だが、中国との国交回復には積極的だった。一方で、アメリカからの自立を目指し、1960年の安保改定では、アイゼンハワー大統領の来日延期を岸信介首相に求めた。

 1966年に中曽根派を結成し、派閥の領袖(りょうしゅう)になったが、少数派閥だったため、同期の田中角栄に後れをとった。角福戦争と言われた権力闘争の中で力をつけ、1982年に念願の首相の座を射止めた。

 掲げたスローガンは「戦後政治の総決算」。大統領的首相を意識し、「指令政治」を進めた。国鉄などの民営化、サミット外交、日米協調、靖国公式参拝、防衛費GNP比1%枠突破。長期政権を実現した中曽根内閣は、正負の政治的遺産を生み出した。

 この歩みを綿密に分析し、長期政権を目指しているのが現在の安倍晋三内閣と言われる。「中曽根チェック」と言われたメディア介入も、当然研究しているに違いない。

 中曽根は憲法改正を実現できなかったが、安倍内閣はこの課題に挑もうとしている。中曽根を知ることは、現政権の動向を見通すことにつながる。中曽根と安倍は、何を共有し、何を共有していないのか。本書は、現在を見つめる絶好の素材を提供してくれる。
    −−「今週の本棚:中島岳志・評 『中曽根康弘−「大統領的首相」の軌跡』=服部龍二・著」、『毎日新聞』2016年01月24日(日)付。

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