覚え書:「今週の本棚:大竹文雄・評 『経済学私小説 <定常>の中の豊かさ』=齊藤誠・著」、『毎日新聞』2016年01月24日(日)付。

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今週の本棚
大竹文雄・評 『経済学私小説 <定常>の中の豊かさ』=齊藤誠・著

毎日新聞2016年1月24日 東京朝刊
 
 (日経BP社・2376円)

走り続ける社会で生きていく意味

 「お前(日本経済)は、前に進んでいない(成長していない)」とランニングマシーンで一生懸命走っている人に指摘する人がいたら滑稽(こっけい)だ。マシーンのベルトの上で走っている人は、「走り続けて、やっと同位置に留(とど)まることができる<定常>状態にある」のだと、著者は言う。

 日本経済が停滞しているように見えるのは、労働者や経営者の努力が足りないからではない。精いっぱい努力しているのに、少子高齢化、国際競争、技術革新といった引き下げる力が強いので、なんとか同じ水準を保ち続けているのだ。それが、成熟した日本経済の姿であり、<定常>状態にあるということだ。

 ランニングマシーンで走っている人は、外から見れば前に進んでいなくても、「走り続けている人間の心肺機能は向上し、脂肪が徐々に筋肉に変わっていく」のであり、内部では活発な新陳代謝が生じているのだ。

 もっと成長を目指すべきだという議論に対し、これからは脱成長が大事だという議論もある。しかし、ランニングマシーン上にいて<定常>状態にある私たちは、「走るのをやめれば、たちまち、マシーンから弾(はじ)き飛ばされてしまう」のだ。つまり、「今の日本の状況で豊かさを守っていくことは、競争から逃げるわけでもなく、成長をあきらめるわけでもない」と著者は指摘する。

 私たちは、<定常>状態の社会で生きていく意味をしっかりと理解すべきではないか。これが、経済学者である著者の齊藤誠氏が、私小説というフィクションの形をとって本書で伝えたかったメッセージだ。

 数え方にもよるが、本書は21の短編小説で構成されている。しかし、単なる短編集ではない。主人公で経済学者の戸独楽戸伊佐(とこまといさ)氏が書いて失踪して残された小説原稿を、出版社の編集者で経済学の博士号をもった立退矢園(たちのくやその)氏が編集するという物語になっている。しかも、立退氏は、解題を加えた上、戸独楽氏になりすまして追加の小説を書いてしまう。

 小説という虚構を使って経済学を表現するための巧みな構成だ。経済学の解説まで直接物語の中に入れても、小説の面白さがなくなってしまう。そこで、解題という形で小説の中で編集者が説明するという形をとっている。扱われているテーマは幅広い。経済成長の意味、消費の伸び率と設備投資の関係、人的資本、失業率、株価、原発事故、震災復興、量的緩和政策の意味、消費税増税、賃金の動き、交易条件などである。

 戸独楽氏が、若者、経営者、官僚、父、妻、娘、息子といった一般の人たちに説明する過程で、読者は世の中の動きの背後にある経済学的な論理を普通の言葉で理解できる。

 小説という形で、齊藤氏がこの本を書いたのは、小説好きの娘さんへのプレゼントという個人的理由だけではないだろう。齊藤氏は、経済学の論理を武器に、常にデータと向き合って研究を続けてきた。その成果は、学術研究に加えて、『原発危機の経済学』、『震災復興の政治経済学』という東日本大震災に関する優れた著作として発表されている。

 研究結果として厳しい現実を突きつけられた人たちは、それをそのまま受け入れられない可能性がある。しかし、小説という虚構なら第三者の立場で冷静に理解してもらえるかもしれない。そういう著者の願いが、小説という形になったのではないか。毎夕、夜に抗して輝く黄昏(たそがれ)の太陽を描いたターナーの絵の装丁が日本経済の豊かさを象徴している。
    −−「今週の本棚:大竹文雄・評 『経済学私小説 <定常>の中の豊かさ』=齊藤誠・著」、『毎日新聞』2016年01月24日(日)付。

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