覚え書:「今週の本棚 中村桂子・評 『心はすべて数学である』=津田一郎・著」、『毎日新聞』2016年1月24日(日)付。

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今週の本棚
中村桂子・評 『心はすべて数学である』=津田一郎・著

毎日新聞2016年1月24日 東京朝刊
 
 (文藝春秋・1620円)

新しい知への一つの突破口を期待

 数学って何なのだろう。長い間疑問に思ってきた。物理学、化学、生物学などの自然科学は自然を対象にし、そこにあるさまざまな謎を解き明かす。ラジウムという新しい元素が発見されたり、生きものは皆細胞でできておりその中のDNAが生命現象を支えているとわかったりすることで、新しい世界が拓(ひら)ける。相対性理論を正確に理解できているかどうかは別として、e=mc2という単純な式で宇宙の基本が描き出せることに感激する。人文・社会科学も研究対象は明確である。社会学、経済学、美学などなど。

 その中でどうしてもわからないのが数学だ。小学校で習う算数は、百円のリンゴを三個買ったらいくら払えばよいかを教えてくれるし、代数や幾何学も役に立つ。しかし、純粋数学と呼ばれる学問は、「何ら現象を意識することがなく、数学的な対象に対する記述」をするものだと言われると、この数学的対象なるものが見えない凡人には、数学者が何を考えているのかがさっぱりわからないのである。

 ところで本書を開くと、数学者である著者の「数学は心である」という言葉が眼(め)に入る。タイトルは「心はすべて数学である」となっているが、著者が語っているのは「数学は心である」ということである。編集者のインタビューをもとに作られているので、恐らく「数学は心」という話を聞き続けたインタビュワーが「心は数学だ」と思ったのだろう。もしかしたら難しいと思っている数学と共に心までわかるようになるのかもしれない。わくわくしながら読み始めた。

 ここで、著者がなぜ「数学は心」と思うようになったかを追って行こう。私たちが外界を捉える感覚、それを基に行う思考や推論は個人によって異なる具体だが、感性は抽象的で普遍的であるというところから始まる。そして、数学はこの「感性という抽象性によって成り立っている」というのである。ここで、数学者岡潔が「数学は情緒である」と言い続けたのはこのことだったのだと気づく(著者もそれを指摘している)。つまり、私たちが日常空間でああでもないこうでもないと働かせている心の動きから、抽象化し普遍性を探り出しているのが数学なのだから、数学の証明・定理などを見れば人の心の動き方がわかるのではないかというわけである。

 ここで、心と脳の関係へと話は進む。科学は心を、脳の活動状態として説明しようとしているが、著者は逆に「心が脳を表現する」と考える。私たちは、生まれた後周囲の人たちからの働きかけ(著者は“集合的な心”と呼ぶ)によって脳が育ち、自分の身体感覚と他者の心が一致することで自己ができる。つまり脳は集合的な心を個々の心に落とし込む装置なのである。コーヒーを飲もうとしてカップに手を伸ばす時、「カップを取りたい」という気持ちに対応するニューロンの活動が腕を動かすということからも心が脳を表現していると言える。実はこのような実験データは積み重なってきているのだが、そこから心の働きについてのストーリーをつくらなければ、脳の働きも心もわかったことにはならず、そこに数学の役割があるというのが著者の考えである。

 そして、脳は複雑系なので、その理解には分析でなく、でき上がっていく過程を追うしかないと指摘する。生きもの研究の中にいる評者としては、その通りと共感する。著者は、数学モデルを作ることでこの過程を追うという新しい取り組みに挑み、外の情報をシステム内に最もよく伝える部品を探したところニューロンと同じ性質になることを数式で示した。このような成果を積み重ねれば、脳が見え心が見えてくるかもしれない……数式はよくわからないながらそんな気がしてきた。

 著者のもう一つの切り口がカオスである。環境は完全に予測可能でもないし、完全にランダムでもない(カオス)から脳は記憶装置を作ったのだという指摘には納得した。ただ、脳があるカオス状態の時に入ってきた情報は、消える運命にあるので、記憶が成立するにはカオスを遍歴する必要があるとのこと。何気ない日常の中で自分の脳がそんな遍歴をしていると思うと楽しくなる。「『カオス遍歴』は新しい知覚や認知といった心の働きの一側面を“計算できる”ことがわかってきた」という著者の仕事に期待しよう。面倒な数式は相変わらず理解できないのだが、数学が少し身近になったことは確かだ。

 次に取りあげられるのが時間である。現代社会では時間といえば時計で測る空間化された時間だが、生きものには内に「折りたたまれた時間」がある。生きるとはこの時間を解きほぐすことだと評者は考えている。そこで、脳の記憶について時間構造を空間構造に埋め込む数学モデルを作ったところカントル集合(無限を捉えたもの)で説明できたという話にも惹(ひ)かれる。

 難しい話が次々現れるが、今や科学は大量データの蓄積でなく、そこからの概念抽出が重要になっていると日ごろ強く感じているので、ここに新しい知への一つの突破口があるのではないかと期待するのである。
    −−「今週の本棚 中村桂子・評 『心はすべて数学である』=津田一郎・著」、『毎日新聞』2016年1月24日(日)付。

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