覚え書:「寄稿:光輝く生命の根源 津島佑子さんを悼む=川村湊(文芸評論家)」、『毎日新聞』2016年03月02日(水)付夕刊。

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寄稿
光輝く生命の根源 津島佑子さんを悼む=川村湊(文芸評論家)

毎日新聞2016年3月2日 東京夕刊

(写真キャプション)在りし日の津島佑子さん=東京都文京区で2012年、森田剛史撮影

 津島佑子さんとは、旅の思い出が多い。エジプトのピラミッドやナイル河への旅。新疆ウイグル自治区を車で回り、そのへりを踏破したタクラマカン砂漠。裸足でその床を踏んだインドのコルカタのカーリー寺院やタージマハールの廟(びょう)。台北や台東の停止脚の露店の料理屋で台湾料理を食べ、積丹半島の旅では、雲丹(うに)だらけの雲丹丼(当たり前だが)をお腹(なか)いっぱいに食べたものだった(どれだけ多くの先輩・後輩の文学者たちが、そうした“津島体験”を共有していることだろう!)。

 グループ旅行の先導者(煽動(せんどう)者?)は、いつも津島さんだった。飽くことのない好奇心と行動力と食欲。それと裏腹な方向音痴と迷子癖。私はいつもそんな“姉貴”の後をついて行く怠惰でズボラな弟分にすぎなかったのだが、おかげでカイロのコプト教会や、ギザのスフィンクス天山山脈や西域のイスラム寺院、インドの路上生活者の生活などを、実見することができた。津島さんはもちろん、『あまりに野蛮な』や『笑いオオカミ』や『葦舟(あしぶね)、飛んだ』や『黄金の夢の歌』のような後期の長篇(ちょうへん)小説群に、それらの旅の成果を反映させて書いている(それにしても、何と旺盛な創作力だったか!)。それを見て、その作品世界の誕生の現場に立ち会えたことを光栄に思ったものだ。

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 光や水や音へのこだわりを感性の核としながら、女性の自立的な生の形を描いた初期の小説から、不幸な家庭の悲劇(息子さんの突然死)を経て、日本やアジアの民族的少数者や、その口承的な伝統文化に傾倒していった後期の作品群。現代の日本社会を鋭く見つめながら、アジアの古層的な文化や歴史にも目を注ぎ、戦争や植民地や政治的な問題にも、果敢に取り組んでいった。最前衛、最前線の日本の小説家として津島さんはいつも走っていたように思える(まさに『山を走る女』だ)。

 ただ、津島佑子の作品には、初期から後期に至るまで、一貫して“光輝く”華やかさと明るさがあったことは言っておかねばならない。それは『夜の光に追われて』のように、暗い、沈んだ闇のなかの一閃(いっせん)の光芒(こうぼう)であったこともあったが、それはすぐに『真昼へ』や『かがやく水の時代』のように、“光輝く”ものへと回復していったのである。

 息子さんを亡くし、悲しみに暮れている津島さんを復活させた一つの“発見”があった。それは、目の前のすべてのものが、死者によって作られたものだという、変哲もない発見だ。街も、橋も、家も、道も、そして思想や言葉さえも、今は生きていない死んだ人たちが作り、この世に残していってくれたものだ。その時に、もちろん悲しみが消え去ることはなかったが、大きくて深い喪失感から立ち直ることができたと、津島さんは書いていた。

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 文芸誌『すばる』の昨年8月号で完結した「ジャッカ・ドフニ〜〜海の記憶の物語」は、私の生まれ故郷の北海道網走市にある、北方少数民族ウィルタ族、ニブヒ族)の文化資料を伝える小さな博物館の名前だ(現在は閉館となった)。津島さんにとって、亡くなった息子さんといっしょの旅行の貴重な思い出の場所だったと聞いている。

 “ジャッカ・ドフニ”〜〜“大切なものを収めるところ”という意味のウィルタ語。私たちはいつも遠回りして、やっとその場所にたどり着く。死者たちの残したものを、ひっそりとしまっているところ。生命の根源の場所。光そのものの生まれ出(い)づるところ。津島佑子さんが私たちに残してくれたものを、私のなかの“ジャッカ・ドフニ”に大切に収めておこう。

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 作家、津島佑子さんは2月18日、肺がんのため死去。68歳。
    −−「寄稿:光輝く生命の根源 津島佑子さんを悼む=川村湊(文芸評論家)」、『毎日新聞』2016年03月02日(水)付夕刊。

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