覚え書:「東日本大震災5年:私たちは変わったのか:3 原発と議論」、『朝日新聞』2016年03月10日(木)付。

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東日本大震災5年:私たちは変わったのか:3 原発と議論
2016年3月10日

イラスト・原有希
 
 動いている原発を止める司法判断があった。でも、再稼働を進める動きは絶えない。原発と共存するリスクをまざまざと教えたあの事故から、原発をめぐる議論をどう立て直すか。


 

 ■「思考停止」に転換の兆し 飯田哲也さん(認定NPO法人環境エネルギー政策研究所所長)

 今回の大津地裁の仮処分決定は、稼働中の原発を止めるという画期的なものです。震災後に福井地裁が出した運転差し止めの判断と同様、誰が見ても当然の根拠から論理的な結論を出しました。「出来てしまったものは仕方ない」という、日本に特有の意識の壁も破った。原発をめぐる議論へのインパクトは強い。

 5年前、この国に住む私たちは原発やエネルギーについて、いわば強制的に、危機感を持って考えざるを得なくなった。あの時期を過ごしたことは大きい。8割近くが「原発はないほうがいい」と思うようになった。さほど意識していなかった3・11以前とは全く違う、大きな変化です。

 とはいえ、まだまだ守旧的な動きは強い。歴史を振り返れば、明治維新はペリー来航から15年後でした。尊皇攘夷(じょうい)で沸騰しましたが、体制側・守旧派からの強い反動が起きた。3・11後の現在になぞらえれば、現在は自民党と電力会社・経済界と経済産業省の3者による反動です。

 しかし世界では、この10年で自然エネルギーの本流化が急速に進んでいます。風力発電は10年前、世界全体で5千万キロワット、原発50基分でしたが、昨年1年間だけで原発64基分が新たに生まれた。太陽光も10年前には原発3基分しかなかったのが、去年1年間で原発59基分ができた。

 10年前にはとるに足らない存在だった自然エネルギーが、今やこんなに大きくなっています。しかも年々加速している。かつてコンピューターは2年で倍速になると言われましたが、自然エネルギーがまさにそうです。世界史的な大変革です。原発はもはや世界の流れではありません。

 あれだけひどい思いをした日本で、なぜ再稼働への動きが進むのか。

 一言で言うと思考停止です。日本の官庁や大企業は、組織も各自の仕事も細分化されている。個人にとっては、おかしいと思っていても、自分の仕事だけではどうしようもない、全体を変えられないという意識があります。

 霞が関原発立地県の役人の中にも、共鳴してくれる人たちはいます。でも彼らは組織の中では異論は言えません。個々人ではどうにもならない。それが実情でしょう。

 私は、原発廃止のルールと時間軸を国民的に合意した上で廃止すべきだという考えです。即ゼロでもドイツ型の段階的廃止でも構いません。核廃棄物の総量規制と福島第一原発事故の教訓を反映した安全規制の強化がカギです。

 世界の状況も、日本の人たちの意識も、確実に変化が進んでいます。守旧派の揺り戻しが長く続くとは思えません。意外にあっさりと崩れるかもしれない。日本でも遅かれ早かれエネルギー変革への大きな転換があるはずです。(聞き手 編集委員・刀祢館正明)

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 いいだてつなり 1959年生まれ。電力中央研究所など「原子力ムラ」を経て現職。震災後の共著に「原発社会からの離脱」。

 

 ■立地の経緯、踏まえ道筋を 武田徹さん(評論家・恵泉女学園大学教授)

 原発事故を契機に日本社会が変わったという感じはしません。変わらなければいけないところは全然変わらず、前からあった問題点がより深刻になったように思います。

 原発問題は、実は「原発以外の問題」でもある。経済成長に労働人口を提供して過疎化した地方にとって、原発受け入れは新規の雇用や税収、交付金確保を求める切実にして現実的な選択でした。原発を前提として様々な社会構造が固定化されていった地域に、その経緯を無視して「全原発を即時廃炉」といっても無理がある。原発がなぜ、そこに、どうしてできたのかをひもとかないと、いかなる解決にもつながりません。

 原発が立地した地方の事情を都市住民が関知しないのは今に始まったわけでもありません。弱者を包摂しない傾向は、戦後日本でかなり前から進行していて、「3・11」後はそれが露骨に示されただけとも言えるかもしれない。

 震災直後は計画停電バリアフリーのエレベーターの停止がありました。移動の自由を制約された弱者の心情や、安定した電力供給が必要な人工呼吸器利用者やその家族が感じた恐怖について、どの程度の共感が社会的に形成されていたか。障害者や病者と立場を反転させても納得できる電力の使い方、電源の確保を考えていく必要があったはずですが、そうした議論は今に至るまで存在していません。

 解決すべき問題を多く抱えた日本の現状を考えれば、野田政権が2012年9月に「2030年代に原発ゼロを目指す」と打ち出したのは非常に高い理想を示したといえます。果敢な目標設定をして、政策を着実に組み立てていく覚悟が伴えば、一つのやり方として評価できたのですが、脱原発派、原発維持派の両側から批判されて、すぐ後退させてしまった。あの時点で社会的合意形成の努力をしていればと惜しまれます。

 原発をめぐる構造を変えていくとすれば、まず原子力委員会原子力規制委員会のあり方を見直すべきでしょう。原子力政策の司令塔のはずの原子力委員会は有名無実化している。規制委員会は孤軍奮闘していますが、今回の高浜原発運転差し止めの司法判断で、新規制基準に疑問が突きつけられたように、空回りしている印象もある。原発をどうするかは、長期的な歴史観を踏まえて、少なくとも数十年単位で具体的な道筋を考えていかなくてはいけない。

 科学技術の大きな潮目や国際政治、地球環境、資源の問題も視野に入れて政策決定を下すには、時の政権とは独立した組織と、その決定に実効性を持たせる制度設計が必要です。そのため委員の選出方法を変える、多様な業種や地方の人を入れるなどの議論がもっとあっていいと思います。(聞き手・尾沢智史)

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 たけだとおる 1958年生まれ。メディアと社会の関係を問い続けている。著書に「原発論議はなぜ不毛なのか」など。

 

 ■「便利」の意味、まず考えよ 倉本聰さん(脚本家)

 私が脚本を書いたドラマ「北の国から」の放送開始から35年になります。東京から北海道・富良野に移住した一家の父親は「電気がなくても暮らせる」と言い、長男が家庭用の小さな風力発電を考案する場面もありました。エネルギーとどう向き合うか、当時から提示していました。

 こう話すと根っからの自然エネルギー派に聞こえるかもしれません。しかし、福島第一原発事故の前は原発について無知でした。漫然といやだなという程度で、あれほど危険なものとは思っていなかったのです。

 富良野で暮らしてきた私に福島との接点ができたのは、俳優を育てていた富良野塾元塾生が福島県内にいたからでした。安否を尋ね、現地を訪れて出会った人たちに話を聞く中で、原発事故の影響を目の当たりにしたのです。

 炭鉱の閉山を扱った「悲別(かなしべつ)」シリーズの芝居も書きました。ここで炭鉱労働者は棄民となって、土地を去ります。福島の場合、原発の社員だけでなく、多くの住民が巻き添えになっています。

 思えば、使用済み核燃料の処理方法を確立していないのに原発ということ自体、見切り発車でした。さらにあれほどの事故から5年もたたず、原発が相次いで再稼働しています。僕にいわせれば、あれだけの出来事がもう風化し現状を是認しているのです。

 とくに東京はそうですね。節電も結局、一過性だったように映ります。あきらめやすい国民性のせいなのか、もう忘れちゃっているわけですよ。生き方を変えるという議論なんて、もうないじゃないですか。欲望を一度もった人間は、残念ながら元に戻れないということなのでしょう。

 昨年、被災地の福島を舞台にした「ノクターン」という芝居を上演しました。原発事故に批判的なせりふもありました。でも、地元では原発で潤っていた人もいる。福島で公演するとき「外部の人間が勝手なことを書いて」と言われないかと、実は怖かったのです。結果として好意的な反応でしたが、現場を歩くことで、想像力がかき立てられリアリティーのある話になる、と思います。

 震災のとき福島に住んでいた人と電話でときどき話しますが、怨念や恨みは今も消えていません。こうした人たちに寄り添っていくことが、私たちのすべきことです。

 エコノミー(経済)、エコロジー(環境)、カルチャー(文化)がバランスよく互いを支え合っているのが真の文明社会だと思いますが、日本では経済がずっと突出してきました。「便利」とは、自分のエネルギーを使わず、他のエネルギーに頼ること。その意味を考えないと、これからの暮らし方の根本的な議論も進まないのではないでしょうか。(聞き手・川本裕司)

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 くらもとそう 1935年生まれ。数々のドラマの脚本を担当し、舞台演出も行っている。劇「屋根」を各地で公演中。

 ◇明日は東日本大震災、そして今後起こりうる災害が日本人の脳や心に残すものについて、解剖学者の養老孟司さんに聞く予定です。
    −−「東日本大震災5年:私たちは変わったのか:3 原発と議論」、『朝日新聞』2016年03月10日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12249847.html





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