覚え書:「今週の本棚・加藤陽子・評 『吉野作造政治史講義−矢内原忠雄・赤松克麿・岡義武ノート』=吉野作造講義録研究会・編」、『毎日新聞』2016年03月13日(日)付。

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今週の本棚
加藤陽子・評 『吉野作造政治史講義−矢内原忠雄赤松克麿・岡義武ノート』=吉野作造講義録研究会・編

毎日新聞2016年3月13日 東京朝刊

 (岩波書店・8100円)

一党優位体制を許さなかった民本主義

 100年以上も前の吉野作造の講義録を読める日がやってくるとは。本書の刊行を知り、まず去来したのがこの感慨だった。丸山眞男については、聴講した学生のノートや草稿から、日本政治思想史講義が再現され、『丸山眞男講義録』全7冊として編まれている。コピー機がなかった時代という点では同じだが、丸山の場合、最も古い講義とて1948年のものであり、戦後に属する。

 吉野の学問的系譜に連なる若手研究者らの尽力により、最も古いところでは、13年度になされた吉野の政治史講義を記したノートが発掘され、活字で読めるようになったことは、学問を愛する全ての人々にとっての朗報に違いない。

 東京帝国大学法科大学・法学部では、00年、政治学と分けて政治史の講座を設け、吉野は13年度から講座初の専任となった。その初講義をノートにとった者が、当時20歳の矢内原忠雄だったと知れば、政治史という学問の誕生の場を見たい人以外の食指も動こうというもの。

 では、矢内原とは何者か。長じた後に、新渡戸稲造の後任者として東大経済学部で植民政策論を講じ、日中戦争が勃発した37年に筆禍事件で辞職することになる人物にほかならない。本書には、矢内原ノートのほかに、赤松克麿が筆記した15年度・16年度の講義、岡義武が筆記した24年度の講義、の計4年分が収録されている。赤松は後に社会民衆党を結党し政治家となる人物であり、岡は吉野の後に日本政治史を担当し、南原繁とともに終戦工作に関わる7教授の一人となってゆく。

 講義の内容を見る前に、吉野にあっての論文と講義の違いを見ておきたい。吉野は一代の文章家であり、命名にも秀でた学者だった。民本主義はその最たるものだが、別の例を一つ挙げておく。ウィルソン米大統領による14か条の提議で、第一次世界大戦終結した画期性を述べた文章のなかで吉野は、「戦争商売には正札がない」との名言をはいた。初めて戦争に正札をつけたのがウィルソンだということだろう。

 だが講義となると、意外にもこのような鮮やかなレトリックは見当たらない。本書の巻頭の伏見岳人氏による詳細な解説や、巻末の五百旗頭薫氏による論考が的確に指摘するように、講義時の吉野はレトリックを封印し、欧州や日本の政治史を体系的に論ずるよう努めていた。むろん、論文を書く時も講義の折にも、吉野の胸の底には、一定のレベルの憲法を持つ世界の国々に共通するデモクラシーの本質は何か、それを見定めたい、との一貫した問いと願望があったはずではあったが。

 では、切れ味鋭い吉野節を講義録にも期待していた向きは、どうすればよいのか。そのヒントは、先の赤松が吉野の次女の結婚相手となったことからも察せられるように、大学の講義が、教師と学生との間における親密な空間、いわば密室でなされる点にありそうだ。南原の回想によれば、24年に吉野が東大を辞し朝日新聞社に入社した理由の一つには、学費に困る朝鮮人学生のため自ら学費を調達する狙いがあったという。学生をかくも大事にした吉野ならば、その講義空間には格別のものがあったに違いない。

 矢内原ノートからわかったことは、初年度講義において、「社会主義」の理論と現実が詳細に論じられていたという事実である。講義の前年、吉野はベルリンでドイツの帝国議会選挙に遭遇し、社会民主党の台頭を目にしていた。ヨーロッパの社会主義思想の諸潮流を丁寧に講じた授業では、マルクス中心史観ではなく、人格者として聞こえたサンシモンを的確に位置づけ、プルードンアナーキズムにも目配りがなされていた。講義空間の先進性を再現しえた意義は大きい。

 次に、赤松と岡のノートから何が読みとれるだろうか。評者は、二つのノートの間に横たわる時間と、吉野の論調の変化に注目したいと思う。赤松のノートは、吉野が「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途を論ず」を『中央公論』16年1月号に掲載した時期にあたり、講義でも同様のテーマが扱われていた。しかし、24年の岡のノートになると、テーマは大きく変わり、日本憲政史が講じられている。

 立憲政治の原論から、現実政治への批判的考察に講義の重心が移っているのが見てとれる。吉野は、数で政党が勢力を張れば藩閥を抑えられるとした、政友会総裁原敬の考え方を講義の中で批判している。殊に、貴族院衆議院を縦断的に、政友会の一党優位体制下に置こうとした原の手法を批判していた。

 一般民衆の意向に従って政治を行う民本主義を説いてやまなかった吉野の目に、政友会型の一党優位体制が許しがたいものと映っていた事実に注目したい。選挙によって民意を代表する政党、多数と少数をつなぐ存在としての政党。その意義を考え抜いた吉野が、一党優位ではなく、二元的に対立する政治勢力の交代を理想としていたこと、これを記憶に留(とど)めたい。
    −−「今週の本棚・加藤陽子・評 『吉野作造政治史講義−矢内原忠雄赤松克麿・岡義武ノート』=吉野作造講義録研究会・編」、『毎日新聞』2016年03月13日(日)付。

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今週の本棚:加藤陽子・評 『吉野作造政治史講義−矢内原忠雄・赤松克麿・岡義武ノート』=吉野作造講義録研究会・編 - 毎日新聞








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