覚え書:「若松英輔の「理想のかたち」 最終回・水俣病、発生確認60年 ゲスト・水俣病元患者家族、漁師の緒方正人さん」、『毎日新聞』2016年03月26日(土)付。

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若松英輔の「理想のかたち」
最終回・水俣病、発生確認60年 ゲスト・水俣病元患者家族、漁師の緒方正人さん(その1)

毎日新聞2016年3月26日 東京朝刊

 最終回となる今回、批評家、若松英輔さんは、水俣病=注<1>=認定申請患者協議会元会長で漁師の緒方正人さんと対談した。緒方さんは1985年、悩み抜いた末に「チッソは私であった」との言葉を発して、認定申請を取り下げた。「補償」や「救済」で終わらない問題の本質は何か、若松さんと議論を深めた。【構成・写真、鈴木英生】

金では「解決」しない 私含めた人間の「罪」

 若松 今年は水俣病の発生確認から60年です。段々と、当事者の方にじっくりお話をうかがうのが難しくなってきました。高齢化し、亡くなる方も増えて……。そうしたなかで、いのちの通わない言葉で水俣病が語られるようになるのはとても恐ろしい気がします。

 緒方 (加害企業である)チッソにも、水俣病がひどかった時代の社員は、今やほとんどいません。

 若松 本当に残すべきものを十分に捉えきれていない言葉が増えているのではないでしょうか。

 緒方 言葉が力を失っている。言葉前夜、言葉化する前の身もだえに立ち返る必要がある。

 若松 うめきみたいなものが見えなくなると、単なる年表上の事件になる。身もだえやうめきを語り継ぐために、どんな言葉、うめきの器を作れるかを考えています。

 緒方 水俣でも他の社会的事件でも、「考える」ことは関係した誰もがしてきた。ただ、「考える」と「感じる」の違いが分からなくなっているのかもしれません。

 若松 感じるとはもともと、言葉にならないことの認識なのに、言語化されない、記録に残らない思いはなかったことにされて、問題は「解決」させられる。実際は、言葉にならないことが打ち捨てられたままなのではないでしょうか。

 緒方 私は、解決という言葉が嫌いです。政治的に終わったとか、社会的に風化したとは言えても、本質は解決しようもない。かつて、被害者運動に参加して、世の中に直接ぶち当たりました。チッソにも県庁にも行き、逮捕されて検察の取り調べも受けた。県の認定審査会の前に、銀行や信金が「補償金が出たら預金を」と家々に来る。来た家の人がほぼ確実に認定される。認定されると多くの人が体験を語らなくなる。金に置き換えられ、終わらされていく。

 若松 緒方さんは一貫して、水俣病を、人間「も」巻き込まれた出来事であると語られてきました。

 緒方 人間の加害と被害だけを語ると、人間以外、魚や鳥や猫が出てこない。生態系が、生物が破壊されたのに。補償金は、人間以外にとって、まさしく「猫に小判」です。私は30年前、とても深く苦しみ抜き、どん底の絶望の中で(水俣病の)認定申請を取り下げて、いわば「価値交換をしない立場」を選びました。すると、他の生き物に存在の地点が近づく。生物的な選択をした。

 若松 「生物的選択」とは、凄(すさ)まじい言葉ですね……。

 緒方 根っこは幼児体験にあります。2歳の頃から親父(おやじ)に背負われて漁に行った。字を一文字も書けない段階で、カニやエビを触っていた。親父が亡くなったのは私が6歳の時です。まだ、お金を使った経験がなく、何かと何かを交換する価値観に染まっていなかった。学校教育の前に「課題」が来た。親父の苦しみ、魚や猫の苦しみを既に見ていたのです。

 若松 緒方さんは、「生物」を「よりいのちに近い」との意味で使われますが、世間は逆に「下等な」というニュアンスを込めますね。

 緒方 大げさではなく、自分の中で革命が起きたのです。

 若松 革命は一人で起こせる。

 緒方 一人という普遍性に注目する必要があります。

 若松 水俣で大切なことをされた方々は、運動の先頭にいても、よく見ると一人で立たれている。

 緒方 一人は、存在自体の根本ですから。30年前に苦しんだとき、自分が何者か分からなくなった。社会的位置は、漁師のせがれで水俣病被害者あるいはその家族の緒方正人。この位置全部に疑問を持った。被害者の立場からも離れて、「オレは人間ぞ」と叫んだ。人間という立場で初めて、「チッソは私であった」と自覚した。自分が彼らの立場ならば、同じことをしたのではないか。大量生産大量消費社会の一部としての私の「罪」を自覚したんです。

 同時に、自分は泥棒だと気づいた。漁師である私は、自分で産みも育てもしない魚を捕って、売っている。しかし、おのれを止められない。身を剥ぐつらさ。人から問われたのではなく、自ら問いを設定して、自分にぶつけた。

 若松 避けられない問いを生きないと、人は人間になれない。私が家族を失ったのも、準備できない、避けられない人生からの問いでした。人生には答えはない。でも、手応えの「こたえ」をたよりに生きなくてはならない。

 ■人物略歴

おがた・まさと

 1953年熊本県芦北町生まれ。6歳の時、水俣病で父を失う。水俣病認定申請患者協議会会長を務め、申請取り下げ後は「本願の会」で独自の運動を展開してきた。著書『チッソは私であった』『常世の舟を漕(こ)ぎて−−水俣病私史』。
    ーー「若松英輔の「理想のかたち」 最終回・水俣病、発生確認60年 ゲスト・水俣病元患者家族、漁師の緒方正人さん(その1)」、『毎日新聞』2016年03月26日(土)付。

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若松英輔の「理想のかたち」:最終回・水俣病、発生確認60年 ゲスト・水俣病元患者家族、漁師の緒方正人さん(その1) - 毎日新聞

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若松英輔の「理想のかたち」
最終回・水俣病、発生確認60年 ゲスト・水俣病元患者家族、漁師の緒方正人さん(その2止)

毎日新聞2016年3月26日 東京朝刊

 若松 本当の言葉は素朴で誰にでも分かる。「チッソは私であった」は実に力強い。複雑に語るほど原点から遠のく。

 緒方 被害者の「救済」という単語も、私にはうさんくさい。支援運動は、実は当事者を社会教育してきたのではないか。田舎の人間を近代社会に引率して、「これが救済です」と裁判所に行く。「代表や副代表以外は記者会見に出なくてもいいですよ。しゃべる内容は弁護士が用意します」と。実は、認定制度も裁判も市場経済の一部で、弁護士も裁判官も相場師ではなかったのかと。バブル期にはそれなりの額で、その後は段々と下がる。これはもちろん、絶対に否定できない人間社会の知恵です。でも、たまには「本当にこれが救済か?」と振り返ってほしい。

 若松 緒方さんや『苦海浄土』=注<2>=のように、人間や作品の姿をして運動の中に隠れていた問いがよみがえる。お二人は、亡くなった無数の人々の思いに突き動かされているようにも感じます。

 緒方 30年前、苦しみの中で「目を付けられた」と思った。「これはどこかで表れないと済まないものだったんだろうな」と。ものすごく鋭敏な感覚がよみがえったんです。神、世界と対話するような。違う言い方をすれば、昔、土本典昭さん=注<3>=に「つかみの勘が鋭い」と言われました。流れ星が次々流れても普通は捕まえられない。私は、瞬間的につかむ。

 若松 本当の意味の宗教的感覚ですね。人間を超えたものに触れる。水俣の歴史には、凄まじい苦しみを背負った人間だからこそ切り開いた、もう一つの世界がある。それを、一人に、であっても語り継がなくてはなりません。逆に言えば、法然から親鸞(しんらん)のように一人にしか語り継がれなかったことこそ、普遍として残る。「チッソは私であった」は、100年経(た)ってもあせないでしょう。鎌倉時代であれば、南無阿弥陀仏として表れた言葉だと思います。

注<1>=チッソ水俣工場(熊本県水俣市)から出た有機水銀による公害病。認定患者約3000人。「4大公害病」の一つ。

注<2>=石牟礼道子作。患者と家族の苦しみを描いた水俣病の代表的記録文学

注<3>=1928−2008年。記録映画作家水俣の映画を多数制作したほか、原子力問題や京大闘争も記録した。

対談を聞いて

 緒方さんの「チッソは私であった」や訴訟取り下げを、単に「チッソを許した」「運動を否定した」と解釈すべきではない。緒方さんは加害・被害の構図だけでは解けない課題にぶつかり、資本主義の枠内で「補償」や「救済」がお金に帰結する構造を射抜いた。かつて、日雇い労働運動活動家、船本洲治は「政治は人々を崇高にもするが醜悪にもする」とした。緒方さんは、戦後の運動=「政治」が生み出した無数の「崇高さ」の典型に思える。【鈴木英生】

 ■人物略歴

わかまつ・えいすけ

 1968年新潟県生まれ。慶応大卒。『三田文学』前編集長。「越知保夫とその時代」で三田文学新人賞。著書『井筒俊彦 叡知の哲学』『死者との対話』『吉満義彦 詩と天使の形而上学』『叡知の詩学 小林秀雄井筒俊彦』など。
    −−「若松英輔の「理想のかたち」 最終回・水俣病、発生確認60年 ゲスト・水俣病元患者家族、漁師の緒方正人さん(その2止)」、『毎日新聞』2016年03月26日(土)付。

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若松英輔の「理想のかたち」:最終回・水俣病、発生確認60年 ゲスト・水俣病元患者家族、漁師の緒方正人さん(その2止) - 毎日新聞







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