覚え書:「耕論:障害者とともに 福島智さん、姫路まさのりさん、伊藤亜紗さん」、『朝日新聞』2016年04月06日(水)付。

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耕論:障害者とともに 福島智さん、姫路まさのりさん、伊藤亜紗さん
2016年4月6日

イラスト・上村伸也


 障害者差別解消法が1日に施行された。社会的障壁をなくすバリアフリーの理念は、進化していくのだろうか。かけ声倒れに終わらない共生のありかたを、考えた。

 

 ■コスト引き受ける覚悟 福島智さん(東大先端科学技術研究センター教授)

 障害を理由に不当な扱いをすること、障害者の求める「合理的配慮」を提供しないこと。この二つを差別として禁じた障害者差別解消法の施行は、日本の障害者政策の前進につながると思います。

 障害者差別をなくすための具体的立法は、国内初。単に「差別はいけない」という道徳的な理念を超え、障害者の生きる権利が保障される実質的機会が広がっていくでしょう。差別かどうかで混乱が生じたとしても、解決を目指す取り組みが徐々に蓄積されていくのではないか。その意味で、「未来に開かれた」法律として、まずは評価したい。

 ただ、課題も多い。懸念材料を考えていくと、「大股の一歩前進」くらいの評価になるでしょうか。

 まず、何が合理的配慮にあたるかの規定が抽象的な点。行政や事業主に過重な負担とならない範囲で、つまりコストのかかることは無理しなくていいと認めているから、結果的に、サービスや支援を低いレベルで平準化させる恐れはないでしょうか。

 求めたい配慮を説明し、問題があれば差別と申し立てる責任が障害者側にある点もしんどいです。交渉が上手な人と、そうでない人と、障害者間の格差が広がりかねない。

 法律がカバーする領域が、公共空間中心、役所や事業主がかかわる範囲だけなのも、問題です。日常生活など、対象にならない領域は広いですから。たとえば、私がかかわる盲ろう者団体に、30年もの間、孤立していた盲ろう者の例が報告されました。その人は元号が昭和から平成に変わったのを知らなかったんです。家族同居でも、隔絶されたり放置されたり、社会から切り離された人がいる。行政の不作為の責任を問える仕組みを作るべきです。

 差別解消法は国連の障害者権利条約の批准をにらんで制定したもので、その権利条約の下敷きになったといわれるのは米国の法律です。公民権や女性の権利を求める運動と同じ流れにあり、影響は、権利性があいまいだった日本にはプラスだといえますが、先に挙げたように、差別を訴える責任が障害者側にある点など、米国流の自己責任の論理が強まりはしないか、心配もあります。

 バリアフリーという言葉は定着したけれど、真の共生社会の実現はまだまだ。本気でやるとコスト高なので、文化・スポーツなどでお茶を濁すのが政府の戦略では?

 近年、障害をハンディとしない障害者の活躍がメディアで大きく取り上げられるのも気にかかります。まずは「ただ生きていること」だけで、人は認められるべきではないでしょうか。

 法施行を機に、私たちの価値観自体を見つめ直す機会になればと思います。

 (聞き手・藤生京子)

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 ふくしまさとし 62年生まれ。3歳で右目を、9歳で左目を失明。18歳で失聴。著書に「ぼくの命は言葉とともにある」など。

 

 ■隔てずフツーに接する 姫路まさのりさん(放送作家

 障害者差別解消法が動き出すことで、健常者といわれる私たちが試されていると思います。

 たとえば車イスを使う人が「段差があるので1人で食べに行けない」とお店に言ったとします。お店はスロープを設置するお金はないので、連絡をくれたら迎えに出ますと応じる。それを常連さんが知り、店の人は忙しいからオレたちが押すよと気づかいが広がっていく。そうした対話の機会を増やすことが、法律を育てていく肝だと思います。

 中学2年生の時にテレビで「ダウン症なのに絵がうまい子」が紹介されていて、上から目線の説明に違和感を覚えました。社会人になりダウン症の人たちのダンスチームと知り合い、「やっぱり自分たちとそんなに変わらない」と思いました。発達は遅いものの、コミュニケーションはとれる。知れば知るほど、フツーに暮らしていることもわかりました。

 それなのに、血液検査で染色体異常を調べる新型出生前診断が始まり、ダウン症は避けるべき「不幸の対象」になってしまいました。「私は生まれてこなかった方がよかったの?」。わが子からそう問われる親の心には、大きな穴があいてしまいます。

 不幸の対象なんかではない。ダウン症の子たちとご家族をラジオ番組で紹介したら、大きな反響がありました。「笑っていて驚いた」という感想が多かったです。笑っていますよ、みなさんフツーに。それにダウン症の子の笑顔は、ステキなんです。

 誰にも人よりうまくできないことがあります。障害が「あるか」「ないか」ではなく、障害が「大きいか」「小さいか」で比べるべきです。ぼくは映画を見るのが苦手です。細部にとらわれ、ストーリーを追えない。これって立派な障害だと思います。人づきあいが苦手とか、お酒で乱れるとかも、大小の違いでみれば障害では? それに年をとると、できないことが増えていくわけですから。

 家族でもなく支援者でもないのにダウン症に感情移入してきて思うことは、教育の大切さです。障害についての知識があるかないかで、接し方は大きく変わります。想像力も欠かせません。当事者に一番近づけるのは、想像の世界ですから。

 差別解消法で求められる「合理的な配慮」とは、障害者を区別して隔ててしまわず、フツーに接することです。無理に寄り添う必要はありません。

 何が差別なのか。法律が根づくことで「共通のものさし」ができることを期待しています。一つの差別の下には、100件の理不尽が広がっています。だから一つひとつの理不尽な思いも理解して、受け止めていけるようにしたいです。

 (聞き手・北郷美由紀)

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 ひめじまさのり 80年生まれ。関西を中心にテレビやラジオの番組を手がける。著書に「ダウン症って不幸ですか?」。

 

 ■差異をおもしろがろう 伊藤亜紗さん(東工大リベラルアーツセンター准教授)

 パリッとしたピンク色のシャツ。ハンチング帽。おしゃれな装いの全盲男性と出会ったとき、正直とても驚きました。「好きな色はピンク」と言われ、さらにびっくり。

 私が視覚障害者の空間認識や感覚についてインタビューしたきっかけは、自分と違う身体のあり方を体感してみたいという、好奇心でした。

 個人差はありますが、目の見えない人は、健常者より俯瞰(ふかん)的に空間を把握するようです。大まかな物の配置や、物と物との関係性でとらえる。

 印象深かったのは、一緒に歩いていた大学構内の下り坂を、「坂道」ではなく「山の斜面」ですね、と指摘されたこと。足元の傾斜と、「大岡山」という地名の、ただ二つの情報を組み合わせて、そう理解したらしいのです。

 あふれる情報に埋もれ見過ごす物も多い私たちに比べると、得られる情報が少ない彼らは、視野を持たないがゆえに視野が広く、開放的といえるのかもしれません。

 そうした話を、いちいち興味深く聞いていた私に、ある日全盲の人が言いました。「なるほど、そっち(見える人)の世界の話も面白いねえ!」。障害がある人に対してどこか遠慮がちだった心を、これほどほぐしてくれる言葉はありませんでした。

 障害者福祉のアプローチは「障害者と健常者が同じように生きられること」をゴールにします。非常に重要で、障害者差別解消法が施行された今後、さらに進めていかなければなりませんが、「同じ」の理想を強調するあまり、現実にそこにある違いについて語れなくなったとしたら、かえって窮屈な関係でしょう。

 障害は欠落ではありません。4本足のイスから単純に足を1本取ったら傾いてしまいますが、3本足には3本足の立ち方があります。彼らは生きる様々な戦略を柔軟に携えている。4本足を前提に、何が足りないという「引き算」の発想が、そもそもおかしいのです。

 配慮という善意も、壁になることがあります。障害者といっても多様で、ひとくくりにできない。つきあうほどに、自分の盲点を知らされることも多いですよ。

 視覚障害者と健常者が対話をしながら行う美術鑑賞法がありますが、色や形など普段は言葉にしないことを言葉にする作業を通して、健常者の見方も様々であることに気づきます。障害ある人の参加が、「見る」という行為の意味を豊かに考え直す機会を与えてくれました。

 差異を面白がる視点と福祉的視点とは、対立せず、補完的なものでしょう。障害ある人たちに、まずは気軽な友達、近所の人として接してみる。不謹慎なくらいの「好奇の目」から、本当のバリアフリーは育まれるはずです。

 (聞き手・藤生京子)

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 いとうあさ 79年生まれ。専攻は美学。昨年の著書「目の見えない人は世界をどう見ているのか」が話題に。

 

 ◆キーワード

 <障害者差別解消法> 正当な理由なく、障害者へのサービスを拒否したり制限したりすることを禁ずる。障害者から意思表明があれば、負担になりすぎない範囲で、社会的障壁を取り除くための「合理的配慮」の提供も義務づけているが、公的機関は法的義務、民間は努力義務だ。
    −−「耕論:障害者とともに 福島智さん、姫路まさのりさん、伊藤亜紗さん」、『朝日新聞』2016年04月06日(水)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12296685.html






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