覚え書:「耕論:文系で学ぶ君たちへ 最果タヒさん、鷲田清一さん、ロバート・キャンベルさん」、『朝日新聞』2016年04月07日(木)付。

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耕論:文系で学ぶ君たちへ 最果タヒさん、鷲田清一さん、ロバート・キャンベルさん
2016年4月7日

最果タヒさん=遠藤真梨撮影 

 学生注目! 何だ! 文系の学問は役に立たないから廃止しろなんてことが言われている! ナンセンス! 我々は先輩の教えを聞いて、断固文系で学ばねばならない! 異議なし!

 ■ムダあって人は作られる 最果タヒさん(詩人)

 阪神大震災が起きた1995年。私が9歳だった時の話をしますね。

 阪神、淡路を襲った巨大地震で高速道路も高層ビルも見事に壊れ、街の機能はマヒしました。神戸市内の自宅も半壊し、しばらく避難所で暮らしました。そこで、おじいちゃんたちが青空の下で将棋を教えてくれたんです。おなかが満たされたわけではないし、その後、何かに役立ったわけでもない。でも、ひととき笑顔になれて、心が満たされた。人間って、そういう時間も必要なんじゃないかな、と思います。

 高速道路や高層ビルは、確かに便利で生活に欠かせないものです。私がおじいちゃんに習った将棋は、少なくとも私の人生に欠かせないものではない。でも、役に立つものだけでは生きていけないんだということを、青空将棋から無意識のうちに学んだのかもしれません。

 もしかして大学で、特に文系の学部で学ぶことなんか、社会で何の役にも立たないよ、なんて考えていませんか。

 私は大学時代、文系、理系を問わず、興味があればどんな授業でも聞きました。何かを知ると疑問が一つ解けて、次の「なんで?」が生まれる。それをくり返すうちに点と点がつながって線になり、頭の中の地図が広がり、世界の見え方が変わってくる。それだけで楽しかった。答えがなかったり、正解が一つじゃなかったりする学問は底なし沼のようで、果てのない感じが面白いなあ、と。

 思考を育てるという点で、どんな学問にだって意味があると思います。いや、意味のないものなんて、あるのでしょうか。学問が追い求める真理って時を超えても淘汰(とうた)されずに残るものですよね。役立つかどうか、時代ごとにふるいにかけていては、学問の存在意義はなくなってしまうし、時を超えるものなんて生まれないでしょう。

 私の詩なんて、役に立たないものの典型でしょう。そもそも誰かの役に立つから詠んでいるわけじゃないですけど。ただの言葉の連なりが、誰かの心には刺さって絶対的なものになり、そうでない人には何の価値もない。一般に、役立つとされるものって役立ち方が決められているけど、詩は読んだ人ごとに解釈がある。それがいいんです。

 スポーツカーだって、スティーブ・ジョブズが生んだ商品だって、機能だけでできているわけじゃない。色やデザインも大切ですよね。食べものは栄養が取れれば、味はどうでもいいのか。役立つことだけを求めていったら世界が一色になってしまいませんか。

 青春時代なんて、振り返ればムダだなあと思う時間ばかり。でも、人は、そういう時間で作られていくんです。

 (聞き手・諸永裕司)

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 さいはてタヒ 86年生まれ。08年、女性最年少の21歳で中原中也賞を受賞。15年、現代詩花椿賞。近く4冊目の詩集を刊行。素顔は公開していない。

 ■全ての研究は「文」に通ず 鷲田清一さん(哲学者)

 文系の「文」は、言うまでもなく文化の「文」です。その研究をするから文系です。そして、僕に言わせると、大学の研究は突きつめればみな文系につながります。

 たとえば、医療の技術は医学部でやっていますね。病気だとか治ったとか、数値で決めるけれど、そもそも健康と病の差って何なのか。それを考えるのは文系の学問です。都市工学は工学部ですが、都市生活の豊かさって何なのかと考えるのは文系です。反対に、心理学は文学部にあることが多いけれど、実験して統計をとって分析して、と理系の手法で考える学問です。

 文と理は対立する学問ではないんですね。一つのことを両面から探るのが学問なのです。もっと言えば、言葉の意味でも対立しません。文は織物の「文(あや)」、理は石の「肌理(きめ)」、どっちも模様、ないしは筋のこと。見極めようとするものは同じです。だから、大学ではみなが文を学ぶんだと思ってください。ちなみに、文化の文に対立するのは「武」です。

 そう考えると、危機にあるのは文系学部ではなくて「文化」であり「文」です。物事をものすごく長いスパンで見るとか、根源的な原理を探していくというのが文の特徴ですが、その評価の物差しが短期的になってきました。すぐに成果が出るかでお金の集まり具合が違ってくる。腰を据えてやる研究の予算はどんどん削られています。それに流されたんではよくない。

 国家百年の計といいますが、100年先を見通すのは、信念があっても容易にできるものではありません。仕事がある人は、いまの課題で精いっぱい。そこで学問なんです。

 大学というところは、目下の仕事に取り組む人の代わりに、あるいはその委託を受けて、役に立つか立たないか分からないことでも必死に探求するところです。100年後にどういう社会になっていればいいのか、いま何をすればいいのかと考えるときに、歴史学や哲学は数千年前までさかのぼって、具体的な事例、論理的な可能性を丹念に調べる。そして、短期的な視野とは別の可能性をいまの時代に示せるよう準備しておく。それが学問の役割です。

 一つのことを徹底的に考え抜いてください。その問題の解決のためにあらゆる方法を試し尽くす。すると、後で別の課題に取り組むときもその可能性と限界がよく見えてきます。

 視差という言葉があります。見る目が二つあって、ものは立体的に見えます。幅広い視差を持つ、でかい人間になってください。物事を多くの面から見られる人、多くの人に思いをはせることのできる人に。

 いま大学で学び始めようとする君たち。どうぞ「文」を究めてください。

 (聞き手・村上研志)

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 わしだきよかず 49年生まれ。大阪大総長を経て、昨年4月から京都市立芸術大学長。著書に「哲学の使い方」「しんがりの思想」「〈ひと〉の現象学」など。

 ■「問い」見つけ感性鍛えて ロバート・キャンベルさん(日本文学研究者)

 もし、「文系でも大丈夫だよ」と呼びかける、セラピーのような記事を期待するのなら、この先は読む必要はないでしょう。これから私が話すのは、自分の今いる学科で、与えられた環境で、一つでいいから自分ならではの「問い」を見つけてほしい、ということです。

 私の専門の文学は「虚学」です。実学ではありません。「すぐに役に立たない」と言われれば、その通り。就活でも不利かもしれない。ただ、「すぐに役に立つ」ものが20年後、30年後も、そうであり続けるでしょうか。その点、文学には賞味期限がありません。何十年、何百年と読み継がれてきた作品ほど精緻(せいち)な分析に耐えるものはないし、いまだに考えさせられるものが多いものです。

 例えば、約250年前の江戸時代に上田秋成が書いた怪異小説集「雨月物語」の中に「菊花の約(ちぎり)」という短編があります。

 旅の途中、病に倒れた武士と、看病した宿場町の若者が親しくなり、義兄弟の契りを結んだ。病が癒えた武士は、故郷に戻ることにしたが、若者が懇願して再会を約束した。ところが、武士は故郷でとらわれの身となってしまった。約束の日の夜、若者は、闇の中に武士の姿を見た。とらわれて動けない武士が、自決して霊となって約束を果たした姿だった――。

 という話です。秋成は最初と最後に「軽薄の人と交わりを結んではいけない」と書いています。作中の誰が軽薄なのでしょうか。この物語を通じて、何を訴えたかったのでしょうか。秋成は語りません。「軽薄の人」については、文学研究者の間で、戦後もいくども熱く議論されています。

 文学とは表現やコミュニケーションを研究する学問です。作者は何を、どういうふうに伝えたのか。それは読み手や社会に伝わったのか、伝わらなかったか。作者や作中の人物の思いと振る舞いを追いながら、真意や底意を読み解いていく。この知的作業は、言語、宗教、文化など様々な差異を持つ人々が暮らす、今のグローバルな社会で、最も大事なことの一つではないでしょうか。

 私は最初に、「問い」を見つけてほしいと言いました。「問い」は、高校生までだったら親や先生から与えられるものだったでしょう。でも大学で学ぶ君たちは、自分で探さねばなりません。しかも、それは4年間では解けないかもしれない。それでも「問い」の壁をこすって、こすって、少しでも「解」に近づこうとしてほしい。

 そこで鍛えた感性は卒業後、何かを始めよう、組織を変えよう、人材を開発しよう、営業にはこういうアイデアを、というときに必ず生きる。自分を支える基盤になるはずです。

 (聞き手 編集委員・刀祢館正明)

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 Robert Campbell 57年米国生まれ。東大院教授。専門は近世・近代日本文学。編著に「ロバートキャンベルの小説家神髄」「読むことの力」「Jブンガク」など。
    −−「耕論:文系で学ぶ君たちへ 最果タヒさん、鷲田清一さん、ロバート・キャンベルさん」、『朝日新聞』2016年04月07日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12298462.html


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