覚え書:「今週の本棚 荒川洋治・評 『8号室−コムナルカ住民図鑑』=ゲオルギイ・コヴェンチューク著」、『毎日新聞』2016年04月10日(日)付。

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今週の本棚
荒川洋治・評 『8号室−コムナルカ住民図鑑』=ゲオルギイ・コヴェンチューク著

毎日新聞2016年4月10日 東京朝刊

  (群像社・1296円)

暮らしを共有する人びとの肖像
 ガガの愛称で親しまれたロシアの画家ゲオルギイ・コヴェンチューク(一九三三−二〇一五)のエッセイ集。B6より少し小さい判型。たった一一二ページでもハードカバー。すてきな絵もいっぱい。開くだけで楽しくなる、可愛い本だ。

 8号室は、ガガさんが二〇年を過ごしたレニングラード(いまのサンクトペテルブルク)のコムナルカ(共同住宅)のこと。コムナルカは、ロシア革命(来年で一〇〇周年)後に生まれた。すべての住宅は共有の資産に。地方から来た人も含め、さまざまな階層の人たちがそこで暮らした。

 近くのホテルに、ソビエトに来ていた女優マリーネ・ディートリッヒが宿泊。ガガ夫妻とも親しくなった。女優はある日、コムナルカの前に。「お宅にうかがってもよくって?」と。でもおことわりしたそうだ。建物の外見はりっぱでも、中は……。招待するわけにいかないというわけなのである。

 大きな建物は、革命後、真っ二つに分けられ、表通りに面した側には大理石の階段もあるが、裏側は手すりも壊れ、みすぼらしい。そのスペースを区切ったのが、コムナルカ。8号室は、部屋が一〇。四〇人ほどが生活。教師、画家、司書、仕立て屋、トラック運転手、食堂のおばさん、経済学者、民警、電気技師、そして子ども、大学生も。風呂はなし。トイレ、台所は共同。快適とはいえないけれど、助けあって過ごす。「これが当時私たちが生きていた現実なのである。」

 一時代、暮らしを共有した人びとの肖像をひとつずつ描く。

 台所のガスメーターの下の「いびつな形の箱」に陣取る電気技師。「守衛」気取りだが、これがよろこびらしい。制服を見られるのが恥ずかしくて、「飛ぶように台所を駆け抜ける」民警。埃(ほこり)に糸をまきつけたりする、おばあさん。南京虫退治の名人であるタタール人女性など、外から来る人もおもしろい。

 こうして短い文章がつづいたあと「カーチャとレオニード」という題の、夫婦の話へ。仲がいいような悪いような二人を、みんな気にかけた。不幸なできごともあった。「エピローグ」では、久しぶりにコムナルカを訪ね、人々の消息を聞く。

 自分のことではない。いっしょにいた人たちのことを記す。スケッチであり、断片的なものなのに、全体を通りぬける、やわらかな空気が感じられる。

 うしろに置かれたエッセイ三編は、一転して、他のことだ。「アゾフ海の入り江の村で」では平原を歩き、海を見つめながら、何十年たっても変わらないものについて思う。

 こういうことは、ひとりで歩いたり、ものを見たりするときによく人が思うことなのに、初めてそのことを知るような気持ちになった。感じたことの中心にあるものが、書いていても変わらないように記されているからだろう。

 最後の一章「かもめ」は、「その存在に注意をむけたのは、私とハエだけだった」から始まる。

 岩場で、死を待つかもめ。「ほら、もうおしまいなんだよ」とでもいっているような、かもめ。そのかもめの体を調べまわるハエ。いのちの終わりを見とどける文章の美しさは無上のものだ。こうして、コムナルカの回想とは異なる素材が、一冊のなかに「同居」する。それも、この本のすてきなところだ。

 熱いことばも語りもないけれど、この一冊に深い魅力を感じた。これからの書物の風景は、このような本のなかにあるように思う。(片山ふえ訳)
    −−「今週の本棚 荒川洋治・評 『8号室−コムナルカ住民図鑑』=ゲオルギイ・コヴェンチューク著」、『毎日新聞』2016年04月10日(日)付。

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今週の本棚:荒川洋治・評 『8号室−コムナルカ住民図鑑』=ゲオルギイ・コヴェンチューク著 - 毎日新聞



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