覚え書:「今週の本棚 渡辺保・評 『佐野碩−人と仕事 1905−1966』=菅孝行・編」、『毎日新聞』2016年04月10日(日)付。

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今週の本棚
渡辺保・評 『佐野碩−人と仕事 1905−1966』=菅孝行・編

毎日新聞2016年4月10日 東京朝刊

 (藤原書店・1万260円)

心血注いだ俳優教育、実態明らかに
 佐野碩(せき)をご存じだろうか。戦前の左翼演劇で活躍した人で、その人生は数奇をきわめた。

 明治三八(一九〇五)年中国天津で後藤新平の娘と医師佐野彪太(ひょうた)の間に生まれた。暁星、開成、浦和高校から帝大法学部に入学。在学中に芝居と左翼思想にひかれ、学生時代から左翼演劇の演出で活躍。そのために当時の政府の弾圧を受け、昭和六(一九三一)年渡米。ロンドン、パリ、ベルリンを経てモスクワでメイエルホリドの演出助手を務め、粛清の嵐のために、アメリカから中米メキシコに渡り、後半生はメキシコで多くの演劇人を育てた。その後も日本に帰らず、昭和四一年、六一歳で病死した。

 彼が日本を出たのは二六歳。その後の人生を海外で過ごしたため、国際的な演劇人であったにもかかわらず日本ではあまり知られていない。

 菅孝行(かんたかゆき)編纂(へんさん)の本書は、その空隙(くうげき)を埋める貴重なものである。七九〇頁(ページ)に及ぶ大著。大きく二部に分かれ、第一部は田中道子はじめ多くの研究者が彼の人生を描き、第二部は彼の残した文献を網羅。これが貴重である。

 しかし菅孝行が「佐野碩の現代的意義」で述べているようにいくら歴史的に貴重でも、それが今日の私たちになにかを与えるものでなければ価値がない。

 その価値は二つある。

 一つは菅孝行も指摘しているように、戦前の日本の軍事独裁政権、ロシアのスターリニズム、メキシコの体制のなかで、民衆は体制とどう闘うべきかの問題。時代は変わっても、反民衆的な体制のメカニズム、民衆との関係には共通のものがある。そこで体制と闘う視点には、今日なお佐野碩の精神が教えるものは大きい。

 もう一つは俳優の方法論について。彼はモスクワでスタニスラフスキーとメイエルホリドの二人の偉大な演出家の俳優術について学んだ。スタニスラフスキーは近代的なリアリズムの俳優術を唱え、メイエルホリドはその粛清の原因にもなったフォルマリズムを主張した。一見二人の主張は水と油に見える。しかし今度初めて明らかになった佐野碩の、メキシコにおける俳優教育のメモによって、彼が二人の俳優術を現場で融合し、その接点を発見していることが明らかになった。彼は第一に「集中」を、第二に「正当化」(舞台上の全てのフィクションを真実に転換する作業)を主張している。この基本はどちらもスタニスラフスキーなのだが、彼はその思想−−人間の集中力についての考察をより深く追求した。そしてそのことによって次の「正当化」においても、メイエルホリドとの接点の可能性を発見している。メイエルホリドの一見形式主義的に見える動きにも「正当化」が必要なのである。その発見は彼の現実的で柔軟で粘り強い考察の結果であり、二人の対照的な演出家の方法論を実際に学んだ成果に他ならない。

 このメキシコで彼が心血を注いだ俳優教育の実態は、この本で初めて朧気(おぼろげ)ながら(というのはこのメモにも欠落があり、それを翻訳者吉川恵美子が克明に復元しているからである)あきらかになった。これがこの大著でもっとも重要かつ読みごたえがある箇所である。

 翻って日本の今日の演劇を見れば、ほとんどの俳優は舞台と映像の演技の違いにも、そもそも俳優の方法にも関心が薄い。俳優を指導すべき演出家にもその意識が欠落している。

 舞台に立つ者、舞台を作る者は、この本を読んで佐野碩の思想に触れるべきだろうと私は思う。
    −−「今週の本棚 渡辺保・評 『佐野碩−人と仕事 1905−1966』=菅孝行・編」、『毎日新聞』2016年04月10日(日)付。

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佐野碩 人と仕事 〔1905-1966〕

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