覚え書:「今週の本棚:松原隆一郎・評 『非常識な建築業界−「どや建築」という病』=森山高至・著」、『毎日新聞』2016年04月10日(日)付。

Resize1744


        • -

今週の本棚
松原隆一郎・評 『非常識な建築業界−「どや建築」という病』=森山高至・著

毎日新聞2016年4月10日 東京朝刊

 (光文社新書・842円)

奇天烈さより「リファイニング建築」を
 新国立競技場の改築は、呪われたかのようだ。国際コンペでザハ・ハディド案を選出、批判続出で撤回、再コンペで出直し、新案にパクリ疑惑と聖火台不在が発覚、そしてハディド氏の急死。撤回がケチの付け始めだったかのようだが、しかしあのままザハ案で強行していればさらに恐ろしい事態に立ち至っただろう。

 売り物のキールアーチは物理的に巨大すぎて施工できず、陸上競技はサブトラックがなく世界選手権に使えず、屋根を閉めると天然芝が死んでサッカー場ラグビー場にもならず、屋根を開けたままだと八万人を集める音楽イベントは騒音源となり、駅までの導線がないため超満員の聴衆は深夜まで難民と化す。それでいて新築費用の3000億円と毎年の補修費は税金となってのし掛かってくるのだ。

 現実を見ず、戦いにならない戦いに猛進していた敗戦間際の日本軍顔負けの八方塞がりだが、それでいてこの現実については、関係者はかばい合って口をつぐむ。そうした中で建築業界事情につき勇気をもって告発してくれたのが建築家の槇文彦氏だが、さらに素人にも分かる言葉でミもフタもなく解説してくれたのが著者であった。本書ではその森山氏が、なぜ建築業界が旧日本軍さながらに猛進するのか、痛快なまでに腑(ふ)分けしてくれる。

 ハディド氏は建築業界ではスター的存在だが、彼女の建築デザインを劣化させたような奇妙な建築物が、バブル経済の頃から地方都市の公共施設に増殖している。それらを著者は「どや建築」と呼ぶ。「見ているほうが気恥ずかしくなるほど得意気な自慢顔」に見える建築物のことである。ピラミッドが逆さに地面に突き刺さったようなビル、地場産業が瓦である地域で瓦を間仕切りや天井に用いて「地場産業の活性化」と謳(うた)い上げる、等々。

 場違いであること、奇天烈(きてれつ)であることを一知半解の現代哲学で「オリジナル」と称して称(たた)え合うことも、仲間内で止まれば無害である。ところが建築業界は指導者層を「どや建築」の大家が占めるようになり、専門家としてコンペをリードするため、税金を投じて建つ公共建築物の多くが「どや顔」になる。しかしいざ建つと、雨もりがしたり外壁のタイルが剥がれたり、美しく泳ぐイカかと思いきや素材に難があり出火してヤキイカになったり、それでいて自治体は毎年の維持費にも長期間苦しむのである。そして記念碑的作品として建築家が奇天烈な外観をいつまでも自慢してくれるかというと、過去のスタイルとして触れなくなるという。

 本書はそのカラクリを、痛快なまでに暴いてくれる。コンペ・建築史・建築家・建築現場・建築論のそれぞれがいかに「非常識」に貫かれているか、ため息が出るほどだ。自治体で公共建築物のコンペを手伝い、公募までに標準的な試作品を自作して、施主の要望に沿う結果を導くよう悪戦苦闘した著者だからこそ書ける内容である。

 どうすべきか。対案も用意されている。地方には「どや顔」をしないが財産であるような謙虚な建築が、多数眠っている。それを壊さず評価し再生させる「リファイニング建築」こそ向かうべき道だという。まったく同感だ。選手でも調理人でも、オリジナリティは的確な基礎技術に予想外の解釈を施して生まれる。基礎の段階でオリジナルを追求させる大学の建築学科に問題の根はあるらしい。
    −−「今週の本棚:松原隆一郎・評 『非常識な建築業界−「どや建築」という病』=森山高至・著」、『毎日新聞』2016年04月10日(日)付。

        • -




今週の本棚:松原隆一郎・評 『非常識な建築業界−「どや建築」という病』=森山高至・著 - 毎日新聞



Resize1299


非常識な建築業界 「どや建築」という病 (光文社新書)
森山 高至
光文社 (2016-02-18)
売り上げランキング: 6,132