覚え書:「書評:プラハの墓地 ウンベルト・エーコ 著」、『東京新聞』2016年04月24日(日)付。

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プラハの墓地 ウンベルト・エーコ 著

2016年4月24日


◆史実に編み込む偽書の謎
[評者]芳川泰久=仏文学者
 著者の訃報と前後して、その六作目の小説が邦訳された。『薔薇(ばら)の名前』や『開かれた作品』が示すように、記号論やテクスト論にかんする深い造詣が、多様な要素を盛り込んだ小説創作と矛盾しない稀有(けう)な小説家で、まさに知の巨人と呼ぶべき存在だった。
 集大成ともいえるこの小説には、十九世紀に流行した新聞連載小説(フイユトン)への著者の愛が充ちている。十九世紀のパリを取り巻く出来事や人物がふんだんに詰め込まれ、いわば史実の網の目をつくっていて、その結び目に、ひそかに一人だけ虚構の主人公を編み込む。できあがった織物からは、見事に歴史と物語の境目が消えている。しかも別の結び目に、著者は悪名高い偽書『シオン賢者の議定書(プロトコル)』を据え、その遠い二つの結び目を織り合わせるという離れ業こそが、作品そのものを形づくってゆく。そうして見えてくるのは、この小説の創作方法じたいがこの偽書の創作方法とも重なっているという図柄なのだ。
 主人公はパリのモベール小路で骨董(こっとう)屋を構えながら、警察や教会や秘密の結社から依頼され、偽の遺言書や手紙や書類を本物と区別できないほど巧妙につくる男である。その秘密の仕事が、やがては偽書そのものの作成にまで男をかかわらせる破目(はめ)になるのだが、その長いプロセスこそがこの物語の読みどころだ。しかも男は、あるとき記憶の一部を失ったらしい。記憶の朦朧(もうろう)状態のなかで、自分にはもう一人の自分がいるかのような状況が出現する。「複数の自我」というのは、この時代の知の潮流でもあるのだが、そこにはパリに留学中のフロイトの姿もあって、男がつける日記も、どうやら失われた記憶や複数の自我に関係あるらしい。
 そこに殺人事件がからみ、ドレフュス事件をはじめ、ユダヤ人問題やイエズス会フリーメーソンといった事柄が織り込まれる。歴史をひもとく面白さも物語を読むわくわく感も、存分に楽しめる著者ならではの小説である。
橋本勝雄訳、東京創元社・3780円)
 <Umberto Eco> 1932〜2016年。イタリアの作家。著書『フーコーの振り子』など。
◆もう1冊
 ウンベルト・エーコ著『小説の森散策』(和田忠彦訳・岩波文庫)。記号論の方法を駆使して、物語を読む楽しみと読解法を講義。
    −−「書評:プラハの墓地 ウンベルト・エーコ 著」、『東京新聞』2016年04月24日(日)付。

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