日記:いよいよ親分−子分の関係から自由な「下から動かせ」が点火し、が民主主義を蘇らせようとしている

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何らか言及しておかないといかないのかしら?
ということで夜勤明けでニュースををざっくりとチェックしながらの雑感。。

全体として、アベ政治へのカウンターは思った以上に善戦したのではないかと。2012年の衆院選以降の数度の選挙は、政権へのカウンターが集約しきれず、結果として暴走を許してしまったというのがその消息ですから、過去と対比するならば善戦と言えるし、カウンターのひな型がはじめて芽吹いたといえるでしょう。たった半年の野党共闘で、1人区で11勝、福島県沖縄県では現職の閣僚が敗退というのは、アベ政治への痛烈な批判の受け皿になったという証拠ではないでしょうか。比例票など参照してみると、政権側の後退といってもよいでしょう。
私自身の当初の予測では、公明党は現状維持、一人区は自民の圧勝、自公で3分の2以上と思っていましたが、以外に上乗せ少なく驚いております。


考えて置かなければならないことは、現実問題として、市民社会に正確な情報を伝えるべきメディアが権力を忖度し萎縮している。この態度は生活世界のあらゆる側面で「遠慮」という馴致を必然しており、例えば教育現場で「平和」と口にすると「偏向」と圧力が加わるという圧倒的な右向け右というのが現代日本の実情です。上智大の中野晃一先生(政治学)が仰るとおり、振り子のように左右に揺れるというのはいつの時代にもありますが、その軸自体がブレきってしまっているのが現代日本の実情です。加えて、選挙違反などどこ吹く風という与党の動員選挙は半世紀以上の伝統ですし、自公の選挙協力のすさまじい合理化に市民の力で一朝一夕に勝てるわけがない訳ですから、そういう状況を勘案すると、善戦したと評価できます。

ただ安堵して終わりではありませんし、民主主義は永続革命にそのダイナミズムがある訳ですから、民主主義を無視する者たちへの抵抗は「今、始まった」ということですし、壊憲としての憲法改正に関しても、風雲急を告げる訳ですから予断は許しません。

正しい在り方というものが唯一的に先験的に実在し、それに合わせればOKというのは、カッコを付けますが「宗教(より正確に言えば宗教というより神話)」の世界だけです。人間の生活世界においては、そうした在り方に耳を傾けながらも、同時に、お互いの意見を自由に交換すること、そのことを相互吟味すること、その中で人間そのものを破壊する在り方を退けていくこと、そういうプロセスを大切にして試行錯誤して生きていくことが最も重要になってきます。アベ政治の特徴は、(限定付きでの言及として理解して欲しいのですが)正しい在り方を正しい在り方として字義通り認める意味での「理念的」「規範的」在り方を無視するだけでなく、過ち難い人間だからこそお互いに相互吟味・相互訂正しながら試行錯誤しながら生きていく、また排除の構造を無視しないという市民社会の「共同生活」の様式(政治はその一部でしょうが)をも無視するものです。

公平公正中立とは確かに大事な基準ですが、アベ政治においてはアベ政治に都合の良い立場だけが公平公正中立というのが現実です。アベ政治を追放することで、ようやくゼロ水準を「回復」できる訳ですから、まずはそこから始めるほかありません。

さて、もう一つ注目したいのは、どこにも所属しない市民が、政党と政治家の考え方を変えたという衝撃です。これは日本型組織論の悪弊といってよいのですが、組織に属する人間は上にならえのヒラメ人間になってしまい、どのようなイデオロギーに準拠しようとも、下から動かせではなく上から動かすというのが日本社会のスタンダード。政治組織と賛同する人間に関しても構造は同じではないでしょうか。

この問題は、吉野作造が百年前に民本主義の主張を掲げ普通選挙を訴えた時にも、いみじくも指摘した問題ですが、政党ないしは政治家とは距離を置く関係を保たないと政治はうまく機能しないのではないかというそれです。即ち、政党と党員はどの立場にたとうとも常に「親分ー子分」の関係になってしまう。政治力学として政党同士が熟議を交わすことで意思決定をし、民衆の利福増進を図ることは確かに体制を問わないデモクラシーと吉野は考えるわけですが、一人ひとりの人間が支持して所属してしまった途端、とにかく、その目指すものと裏腹なものになってしまっても、常に支持した人間が子分になってしまう。動員の論理といってよいでしょうが、その問題を警戒的に避けねばならないという話ですが、この負荷、悪性というものが宿痾の如く、日本型組織論にはつきまといます。日本の右から左までこの瑕疵から逃れ難く「動員」してきたわけですが、特定秘密保護法から、安保法制を経て、昨日の参院選に至る反アベ政治の市民主導のカウンターというものは、日本の非常識としての動員の論理を、まさに正道としての「下から動かせ」というそれ自体としてもカウンターとして、政党、政治家の考えを変えてしまったということです。野党共闘は確かに限界があったかもしれません。しかしながら「上から動かせ」の前世紀的論理で主導し、動員の論理で事を運ぼうとしても、1人区で全敗だったのがここ数回の国政選挙だった訳ですから、団体が何かをリードする、個人を導いていく、このモデルの限界を明らかにし、親分ー子分の論理のオルタナティブとして機能したのではないか、と。

親分に対して子分がヒラメになってしまうのが封建的序列構造とすれば、いわば子分が親分の意思を「動かしていく」。ここに直接民主主義と間接民主主義の新しい接続、そして活性化がはじまったのではないか、と。

シールズ、市民連合は負けたのではない。閉塞した日本社会に対して新しいモデルを作り出すことに成功したのだ。もはや、所属していようがいないが、子分の意見を聞き入れない団体は通用しない。動員ではなく、市民が団体を創造していく、ものすごい時代になったのだと。

僕自身は、自分の期待予測が裏切られたことに、明るさを見出している。アベ政治を終わらせるとは、日本的負荷との戦いなのだ。そして、それが「今」はじまったということだ。



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