日記:タガが外れてしまい、倫理と知性を置き去りにした挙句の迷走か。


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 文藝春秋の本質は、あの戦時下から今日にいたるま半世紀もの時間を経てなおいささかも変わっていないとすれば、私たちはその反「人間主義」、反「平和主義」に対して、決然として立ち向かわなければならない。
    −−高崎隆治『雑誌メディアの戦争責任 「文藝春秋」と「現代」を中心に』第三文明社、1995年、218頁。

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 1990年代中葉、創価学会公明党批判に対する「故なき」誹謗中傷を繰り広げたのが現在の安倍首相が所属する「四月会」。そのキャンペーンを展開したのが『週刊文春』と『週刊新潮』であったことはよく覚えている。

 なぜなら、その「故なき」言論に私自身が対峙してきたからだ。
(※創価学会公明党は、いわば「日本的なるもの」という「負荷」に挑戦してきた訳だから、「批判」ではなく「非難」され、徹底的になぶられた。 「日本的なるもの」とは何か。それは人間の隷属を促すこと。日本社会の制度・習俗・文化があらゆる側面で人間の自律を奪い続けてきた訳だから、異議申し立てなど、見過ごすわけがないのだ)。

 その中で、高崎隆治先生との出会いは私の人生にとって大きなインパクトを持つことになった。学徒兵として戦中を過ごし、戦後日本社会で、一人で、いわば「日本的なるもの」と戦い続けてきた文人である。高崎先生の話を聞き、原稿をチェックしてもらうなかで、信仰という立場は違うけれども、共に、日本的なるものと対峙していくことができること。そして日本的なるものの本質とは何かを学んできた。
(※信仰とはそれぞれの信仰おいて即自的には「特殊なもの」である。しかし「誰もが救われる」という意味で「普遍的なもの」である。これは別々のものではなく楕円の二つの中心点のようなものである)。

 高崎先生は、オームドレットルとして日本的なるものを腑分けしたが、その本質とは何か。それは戦前日本から引き続く反「人間主義」、反「平和主義」がその本質だ。
(※創価学会批判と戦うということは、創価学会とその非難勢力との枠内の戦いではないのだろう。創価学会という「枠」を超えたあらゆる人々にとっての反「人間主義」、反「平和主義」との戦いでもある。この二重の水準が喪失した時、敵と見方の永遠の二分法の罠に落ち込むことになる)。

 昨今、対抗する勢力をdisるためには、臆面もなく『週刊文春』そのほかを持ち上げ、ワッショイワッショイ「大勝利」に口角泡の蝙蝠が幅を効かせていると聞く。

恥を知れと言いたい。
馬鹿なのか。それとも、タガが外れてしまい、倫理と知性を置き去りにした挙句の迷走か。






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