覚え書:「記者有論:ハンセン病 笑顔のために、何ができる 高木智子」、『朝日新聞』2016年05月12日(木)付。

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記者有論:ハンセン病 笑顔のために、何ができる 高木智子
2016年5月12日

大阪社会部・高木智子 
 「かなえたいこと? 隔離されてきて、かなえたいことなんて考えたこともなかった」。熊本の菊池恵楓園に暮らす女性(69)は言った。

 この女性は19歳で療養所に連れてこられた。以来50年、「園名」と呼ばれる仮名で生きている。「いまさら本名にしても、一体だれのことか分からんでしょ?」

 強制隔離を定めた「らい予防法」廃止から20年を迎えた今春、朝日新聞は全国13の国立ハンセン病療養所自治会にアンケートをした。その結果、療養所に暮らす約1600人の38%が、いまも本名を隠して園名で生活していることが分かった。

 隔離政策の違憲性を認めた国賠訴訟の熊本地裁判決、偏見の解消をうたう基本法の施行、最高裁長官の謝罪……。世間の見方は好転し、区切りがついたように語られる。だが冒頭の女性のように、隔離の時代と変わらぬ現実が続いているばかりか、あきらめにも似た声が気にかかる。

 1907年に隔離政策を始めた日本は、96年の法廃止までの間、国策として山奥や離島などにつくった療養所に、患者を閉じ込めてきた。

 男性は断種、女性は堕胎の手術が強いられ、子をもつことを許されなかった。堕胎された胎児は標本にされた。治るようになった後も自由を得られなかった。法の下の平等をうたう日本国憲法のもとで徹底的に排除された。存在を否定され続けた彼らには、トラウマが残った。

 いま療養所に暮らす約1600人は、長い隔離で社会に居場所をなくした人たちだ。平均年齢は約84歳。おそらくこの大半が、その生涯を療養所で終えることになる。

 本名で生きることも、古里に戻ることも、家族との関係を修復することも、社会復帰することも、みんな思いを封じて、療養所で死ぬ——。この現実こそ、救済できない被害を生きていることにほかならない。

 「国策で市民が一体となって隔離をすすめた歴史を刻む日本に、あなたが生きているのだと認識してほしい」。青森の松丘保養園、石川勝夫さん(61)の言葉が胸に響く。

 彼らの体験を知ることだ。隔離をしてきた歴史と向き合い、教訓とすることだ。彼らの痛みを想像し、共感することだ。手記や詩や短歌など彼らが残した言葉にふれることだ。

 私が記者として療養所に出かけて20年。多くの別れがあった。認知症などの病や死。語り部の減りゆく現実に危機感を覚えた一方、かつて来訪者さえいなかった療養所には、学生をはじめ大勢の人が訪れ、語らいが生まれている。笑顔が増えた。劇的な変化で、希望も感じる。

 変わらない厳しい現実は確かにある。残された人生、彼らが笑顔で過ごす時間が少しでも長くなるよう、あきらめさせぬよう、何ができるか考える努力を続けていきたい。

 (たかきともこ 大阪社会部)
    −−「記者有論:ハンセン病 笑顔のために、何ができる 高木智子」、『朝日新聞』2016年05月12日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12351891.html





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