覚え書:「むのたけじさん死去 101歳、「戦争絶滅」訴え ジャーナリスト」、『朝日新聞』2016年08月22日(月)付。

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謹んでご冥福をお祈りします。

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むのたけじさん死去 101歳、「戦争絶滅」訴え ジャーナリスト
2016年8月22日


秋田県横手市で講演するむのたけじさん=2015年10月13日
 「戦争絶滅」を訴え続けたジャーナリストむのたけじ(本名・武野武治)さんが21日、老衰のため、さいたま市の次男宅で死去した。101歳だった。葬儀は近親者のみで行い、後日、「しのぶ会」を開く。▼オピニオン面=社説

 朝日新聞記者時代に終戦を迎え、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と終戦の日に退社した。ふるさとの秋田県に戻り、横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊。1978年に780号で休刊してからは、著作や講演活動を通じて平和への信念を貫き通した。

 100歳になった昨年は戦後70年で「歴史の引き継ぎのタイムリミット」といい、講演で各地を飛び回った。今年5月3日に東京都江東区で行われた憲法集会で「日本国憲法があったおかげで戦後71年間、日本人は1人も戦死せず、相手も戦死させなかった」と語ったのが、公の場での最後の訴えとなった。

 「戦争いらぬやれぬ世へ」(評論社)や「99歳一日一言」(岩波新書)、「日本で100年、生きてきて」(朝日新書)などを著した。

 ■従軍原点・常に弱者の立場

 むのさんは、終戦の日の8月15日を特別な日と考えていなかった。「365日の生活の中で考え続けないといけない」。その日行われる黙祷(もくとう)にも反対で、「声を張り上げよう」と訴えた。

 新聞記者時代は中国やインドネシアなどに従軍。普通の人々が、相手を殺さないと殺される現場を取材し続けた。「臣民」の名で「やらされた」人ばかりで、「やった」人がいないことが戦争責任をあいまいにし、今も近隣諸国と緊張関係が続く原因だと指摘した。

 終戦直前、3歳の長女が疫痢で死去。薬の入手が困難で、病状が悪化した日、出征する医師の壮行会で地域の医師全員が留守だったことなどが重なって助けられなかったことが、反戦活動を続ける原動力になった。

 徹底して憲法改正反対を訴える一方、「憲法を変えようとする人と、変えまいとする人がいるのが普通で、それが正常なんだ」とも言い、改正派の意見にも耳を傾けた。

 ジャーナリストであることの根底には、幼い頃に見た懸命に働いても貧しかった実家と、何もせずに豊かに暮らす旦那衆の姿があった。「不当に貧しい者がなぜ存在するのか。不当に富んでいる者がなぜ威張り続けるのか」。常に弱者の立場に立った発言を続けた。(木瀬公二)

 ■「遺志受け継ぐ」

 むのさんと親交の深かった人たちは、突然の訃報(ふほう)に驚きつつ、遺志を継いでいく決意を新たにした。

 作家の落合恵子さん(71)は主宰する子どもの本専門店「クレヨンハウス」で何度か講演してもらった。「反戦反核・反差別について、力強く訴えてきた大きな存在」

 むのさんの「奇跡は望むものではない。ほしいと望むものを自分たちが自らつくるものだ」という言葉が心に残っているという。「しっかりと受け継いでいきたい」

 今年の憲法記念日に、都内の集会のゲストスピーカーにむのさんを呼んだのは、ルポライター鎌田慧さん(78)だった。車いす姿のむのさんは、マイクを握ると興奮し、右手をぐるぐる回し始めた。80代のころから変わらない姿だ。「力を振り絞って話してくれた。平和への気迫が伝わってきた。最後までジャーナリストを貫いた人だった」と惜しんだ。
    −−「むのたけじさん死去 101歳、「戦争絶滅」訴え ジャーナリスト」、『朝日新聞』2016年08月22日(月)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12522731.html



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