覚え書:「ストーリー:カンボジア支援 86歳神父 貧困と向き合い35年」、『毎日新聞』2016年05月29日(日)付。

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ストーリー
カンボジア支援 86歳神父(その1) 貧困と向き合い35年

毎日新聞2016年5月29日 東京朝刊

後藤文雄神父らはカンボジアの19カ所に校舎を建てた。村の小学校では子どもたちが目を輝かせ、肩を寄せ合って授業を受けていた=カンボジア・プレイツルテン村で2016年1月

 土ぼこりを上げる四輪駆動車に揺さぶられ、あぜ道を約30分進むと、草原の向こうに緑色の屋根をした小学校が見えた。校舎を飛び出してきた子どもは、みんなきれいな目をしている。1月、乾期のカンボジア。東京・カトリック吉祥寺教会の後藤文雄神父(86)らは、タイ国境から約20キロに位置するバンテアイミアンチェイ州チニー村を訪ねた。

 1970年代、極端な原始共産制を掲げた旧ポル・ポト政権は、当時の国民の4分の1に当たる170万人以上を死に追いやったとされる。79年に政権が崩壊した後も、チニー村は20年近くゲリラと化したポト派の影響下にあった。今も電気や水道が通らず、雨期は赤土がぬかるんで、耕運機しか走れなくなるという。

 後藤さんが代表を務めるNPO法人が、チニー村に小学校を建てたのは2001年。字の読めない村人に学校を建設してほしいと懇願された。最初の校舎は屋根があるだけの掘っ立て小屋だったが、板壁にトタン屋根が付いた。午前と午後の授業に79人の子どもが村外れからも通ってくる。

 教諭のチュエン・サップさんは体が不自由なため他に仕事がなかったようだ。月給は100ドル(約1万1000円)だが、「数カ月に1度しかもらえない」と言う。学校近くにあるサップさんの家はわらぶきの屋根を竹材で支えただけだった。後藤さん一行をもてなすため、黒く焼けた肉を出してくれた。野ネズミという。同行した私が恐る恐る口に入れると、鶏肉のような味がした。

 サップさんには21歳を頭に4人の子がいる。上の子3人はタイに働きに出て、13歳の末っ子は僧侶になるため家を出たという。家族の話をしていたサップさんが切り出した。「家が雨漏りする。援助してほしい」。後藤さんは100ドルほどをそっと手渡し、「どうしていいか分からん」と漏らした。

 81年に内戦から逃れてきたカンボジア難民の少年を里子にして以来、この国に関わってきた後藤さんは、気に掛けていることがある。支援は果たして、自立につながったのか。<取材・文 青島顕>
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ストーリー
カンボジア支援 86歳神父(その2止) 教育「自立のため」

毎日新聞2016年5月29日 東京朝刊


後藤文雄神父(左)との別れを惜しむソムナムさん(右)=カンボジアプラウダムレイクラウ村で2016年1月

草原の中に建てられた小学校。子どもたちが何キロも離れた村はずれから集まってきた=カンボジア・チニー村で2016年1月
 

 ◆カンボジアで小学校建設

元少年兵を里子に
 タイと国境を接するカンボジア北西部バンテアイミアンチェイ州は、内戦後もゲリラ勢力が根付いていた。1993年、国連平和維持活動(PKO)に文民警察官として派遣された高田晴行さんが、武装集団に殺害されたのも同州だ。外国人が入りにくい地域に、東京のカトリック吉祥寺教会神父、後藤文雄さん(86)は拠点を置き、96年から小学校建設の支援を続けてきた。

 1月下旬、後藤さんが代表を務めるNPO法人「AMATAKカンボジアと共に生きる会」のメンバーら6人は、この地域に建設した小学校4校を視察し、学用品を手渡した。NPOは同州のプラウダムレイクラウ村を活動拠点にしており、現地スタッフのメアス・ブンラーさん(51)が行動を共にした。

 稲の収穫が終わったばかりの村はのどかだ。天日干しされた米の上を犬や鶏が歩き回り、「ここに来ると落ち着くんです」と後藤さんはつぶやいた。護衛に付いた武装警官らはカードゲームに興じており、さっきまで肩に下げていた旧ソ連製の自動小銃AK47が見えなかった。「どこにしまったのだろう」という私の言葉を聞きつけ、ブンラーさんが口を開いた。「戦争用の銃はソ連製が一番優れている。水にぬれても長時間撃ち続けても、弾がおじぎしない」。たどたどしい日本語で続けた。「戦争は我慢、我慢、我慢だった」。唐突な言葉に驚きつつも、ブンラーさんの不幸な過去を聞いていた私は、いたたまれない気持ちになった。

 カンボジア労働党を母体とする旧ポル・ポト政権は、75年に親米ロン・ノル政権を打倒。極端な原始共産主義を掲げて私有財産制を廃止し、「資本主義に汚染された都市住民」を農村に強制移住させて働かせた。教師や医師などの知識人を「反革命分子」とみなして拷問と処刑を繰り返し、79年の政権崩壊までに、強制労働による衰弱死と合わせて170万人以上の国民の命を奪ったとされる。

 ブンラーさんは64年にプノンペンで生まれ、強制移住で一家が離散した。軍人の父と王族の流れをくむ家系の母の行方は今も分からない。自身は「金」を意味するメアスの姓を伏せて出自を隠し、78年末にベトナムカンボジアに侵攻すると、14歳でポト派の少年兵になった。前線に立たされたという。

 退却する側は攻め込まれないように地雷を埋めて退き、追撃する側は地雷原を進んでいく。「両手で土を掘って、埋まっていないことを確認する。探知機には頼れない。前の人の足跡の上に自分の足を乗せて進む」。ブンラーさんが両手をゆっくりと動かして地雷を探る仕草を見せると、言いしれぬ緊張感が漂った。

 カンボジアに埋設された地雷はタイとの国境地帯を中心に600万個に及ぶとされる。福岡市の財団法人「カンボジア地雷撤去キャンペーン」によると、なお400万個が残っているとみられるが、正確な数を把握している機関はないという。知識層の粛清と地雷の脅威はカンボジア復興の重い足かせとなっている。

 ブンラーさんの独白は30分ほど続いただろうか。「自分は今もつらい。自分のようにならないよう人を幸せにしたい」と言い残して席を立つと、じっと聞いていた後藤さんは「ラーがどれだけ深い闇を抱えているのか、私にも分からない。話すことが少しは気持ちを楽にさせるのだろうか」と悲しそうに言った。

 後藤さんのカンボジア支援は、ポト政権崩壊後の81年、少年2人を里子にしたのがきっかけだ。カトリック系の国際NGOがタイの難民キャンプから日本に連れ出し、後藤さんは吉祥寺教会に集う信徒の中から里親を募ったが見つからず、自分で引き取ったという。カンボジア難民の里子は次々に増えて14人になり、そのうちの一人がブンラーさんだった。

 ブローカーの手引きによってブンラーさんは国境を越え、タイ・サケオの難民キャンプで保護された。81年12月に成田空港に着いた時は17歳。小柄でやせこけ、冬なのにTシャツ姿のブンラーさんを後藤さんが出迎えた。日本語や習慣などの研修を3カ月間受けた後、里子になったが、ポト派の恐怖政治を生き抜くために余計なことを話さないようにしていたせいか、ブンラーさんの声はささやくようで、実年齢より幼く見えたともいう。

 印刷工として働きながら夜間中学・定時制高校を無遅刻無欠席で卒業し、専門学校で写真を学んだ。後藤さんが名古屋市の教会に転任すると、ブンラーさんは東京・早稲田のアパートで1人暮らしを始めたが、90年ごろに様子がおかしくなったという。連絡を受けた後藤さんがアパートを訪ねると、部屋のカーテンを閉め切って明かりもつけず、こたつに座り込んでいた。「沼から出てきたような暗い顔で、自殺するのではないかと心配になり、すぐに病院へ連れて行った」

 半年後、退院したブンラーさんを名古屋市の教会に引き取ると、「人を殺したことがある」と告白した。少年兵の時に、敵陣へ忍び込んでベトナム兵を殺し、食糧を奪ってくるよう命じられ、見張りの3人を背後からナイフで刺したと打ち明けた。後藤さんが「先手を打たなかったら、君が殺されていたのだろう」と慰めると、「それは人を殺した経験のない人の言うことです。殺された方がましでした」と答えたという。

 94年末、後藤さんはブンラーさんを連れ、まだ治安の安定しないカンボジアを旅し、約2万人が虐殺されたといわれるプノンペンのトゥールスレン政治犯収容所跡に向かった。ブンラーさんは壁一面に張られた犠牲者の写真を見つめ、家族を捜した。2週間の滞在の終わりに、頭を丸めたブンラーさんは遺品のように髪を袋に入れて後藤さんに渡した。「ここに残って家族を捜します」。反政府ゲリラと化したポト派がタイ国境付近に残り、遭遇すれば捕まる危険性もあったが、ブンラーさんの意思は固かった。

「頼られる存在」一区切り
 「村人に希望を与えたい。それは教育です。校舎を造るのに手を貸してください」。初めてのカンボジア訪問から半年後、手紙を携えたブンラーさんが後藤さんの元に帰ってきた。手紙はプノンペン近郊にある寺の僧侶が書いたもので、寺も小学校も焼かれたとあった。96年、後藤さんは私財を投じ、ブンラーさんは現場監督となって、寺の境内に三つの教室を持つ校舎を建てた。カンボジアでの小学校建設の始まりだ。

 ブンラーさんは後に活動の拠点となるプラウダムレイクラウ村で、行方が分からなかった妹との再会も果たしていた。後藤さんはNPO法人の会費や寄付金を使って、支援が届きにくい、こうした辺境の村を中心に小学校の建設を続けた。年に2回はカンボジアへ通い、昨年2月までに計19カ所に校舎を完成させた。

 後藤さんらの活動を聞きつけ、援助を求めに来る人もいた。2000年に村に来た少女は小学校の校長が書いた手紙を持っていた。「助けてほしい」とあり、聞けば、親がこの少女を売春組織に売るつもりだという。後藤さんは親に米の支給と学費支援を約束し、思いとどまらせた。

 1月のカンボジア訪問では、その時の少女、ソムナムさん(29)にも会えた。短大で教職課程を修了し、7年前に中学校の理科教諭になったという。黒く大きな瞳が印象的なソムナムさんは「支援がなかったら、自分はどうなっていたか分かりません」と後藤さんに感謝した。きょうだい6人はタイに働きに出ており、周りにいた人の多くも、隣国で建築工事や農産物の販売に携わっているという。進学を希望する子どもがいても、半数は経済的な理由で断念していると話した。

 ブンラーさんは、出会って35年になる後藤さんを「お父さん」と呼び、「戦争を経験したから分かってもらえる」と言う。里親もまた、戦争を生き抜いていた。29年9月、後藤さんは新潟県長岡市浄土真宗の寺の次男として生まれた。戦時に幼少期を過ごし、従軍体験を題材にした作家、火野葦平の兵隊3部作を愛読したという。

 終戦直前の45年8月1日、長岡を襲った焼夷(しょうい)弾による夜間空襲で母ときょうだい3人を失った。全身の皮膚が真っ赤に焼けただれ、河原の泥の中に倒れていた母の姿を忘れないという。戦後は小学校の代用教員を務めたが、再婚した父への反発もあり、18歳の時にカトリック教会で洗礼を受けた。

 東京・上野の地下道で見た戦災孤児の姿もショックだった。ドイツ人の神父から「人のためになる仕事を」と勧められ、50年1月に名古屋市の神学院に入った。当時のいきさつを「使命感が私をつかまえ、熟慮もなく、父や兄と相談もしないままの独断的行動だった」とカトリック雑誌への寄稿で振り返っている。

 50歳を過ぎてからブンラーさんらを里子にし、その後始めたカンボジア支援でも初心を貫いた。「カンボジアの現実を受け止めるのは荷が重いが、目の前に困っている人がいれば、放っておけなかった」と話す。

 後藤さんの飾らない人柄にひかれ、教会やNPOに人々が集まり、活動を支えた。率直で毒舌を交えた話術、体重80キロを超えるユーモラスな体形と愛嬌(あいきょう)のある顔立ち、祭服の襟にはめるローマンカラーは窮屈と言って外す普段の後藤さんに、神父のいかめしさは感じられない。日曜学校に来ていた高校生からは「ゴッちゃん」の愛称で慕われた。

 そんな後藤さんだが、最近は表情がさえない。股関節を痛めてつえを手放せなくなり、車椅子に乗ることもある。右耳は聞こえにくい。昨年10月に同僚のオランダ人神父を89歳で、今月は2歳上の神学院の先輩を亡くした。「まだまだという根拠のない楽観主義でしたが、いよいよだという気になってきました」。先輩を亡くした20日、後藤さんは信徒を前に語った。冗談とも本気とも分かりかねる口調に、ぶしつけながら「後藤さんのような神父でも死ぬのは怖いのですか」と尋ねると、「怖いです」と即答された。

 1月のカンボジア出発直前には高熱を出し、滞在中はせき込みながら「カンボジアに来たのに感動がない」ともぼやいていた。短大に進んで理科の教諭になれたソムナムさんは例外で、小学校を卒業すれば隣国に出て働く子は相変わらず多い。いつも世話をしてくれた村の娘さんにも会えなかった。後藤さんが風呂場で転んで手首を骨折した時、一晩中付き添ってくれた人という。今は結婚してタイに行ったが、相手はかなりの年上で本人は結婚を望まなかったらしい。滞在中、その女性から電話があった。「電話口で涙声になっていたよ」と後藤さんは顔をしかめた。

 80年代以降、日本の何十もの民間団体がカンボジアの自立を支援してきた。孤児院の経営者や教諭、看護師として現地にとどまった人もいる。だが一方で、援助で掘りながら放置された井戸や、教諭が見つからず、修繕もされぬまま荒れ果てた校舎もあると聞く。

 日本の支援はカンボジアの自立に本当につながっているのだろうか。7月に公開予定の映画「シアター・プノンペン」のキャンペーンで来日中の女性監督、ソト・クオーリーカーさん(42)に尋ねた。「日本の援助で無駄になったものなど何もありません。国の立て直しを助けてくれます。どうしてそんなことを聞くの」。監督はやや気色ばんで答えた。たしかに、日本の支援による地雷撤去活動では死傷者が大幅に減っており、「カンボジア地雷撤去キャンペーン」の大谷賢二理事長は「『地雷は危険』という教育の効果が出ている」と話す。

 ただ、カンボジアは貧困を脱していないし、自らの人生を切り開くチャンスを得られない人は今も多い。そんな思いが、35年間にわたって支援を続けてきた後藤さんに重くのしかかる。「お役に立てることは楽しかった。学校がなかったら子どもたちは字も読めず、計算もできなかったのだから。でも、いつまでも私は元気でいられない。そろそろ、ラーは独り立ちする時だ」

 気力が続く限り、後藤さんは今後も現地に足を運ぶつもりだが、NPO活動には区切りを付け、「心を鬼にして」ブンラーさんに後を託すと言った。

 ◆今回のストーリーの取材は

青島顕(あおしま・けん)(東京社会部)
 1991年入社。西部本社整理部、佐賀支局、福岡総局、水戸支局次長などを経て、2011年から社会部で特定秘密保護法やシベリア抑留問題、戦後の引き揚げなどを取材している。今回は写真も担当した。
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