覚え書:「戦後の原点:東京裁判:下 国際人道法、発展の起点に」、『朝日新聞』2016年06月19日(日)付。

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戦後の原点:東京裁判:下 国際人道法、発展の起点に
2016年6月19日

国際法の流れと日本国内の動き<グラフィック・前川明子>

 先月3日に開廷70年を迎えた東京裁判(正式名・極東国際軍事裁判)は、日本の戦争指導者を断罪する場であったのと同時に、国際人道法が発展する起点にもなりました。特集の2回目は、海外の人たちが裁判にどのようなまなざしを注いできたのかをみます。

 ■オランダ 「平和に対する罪」に判事葛藤

 国際司法裁判所(ICJ)や国際刑事裁判所(ICC)が集まる国際法の都、オランダ・ハーグ。この街で4月、東京裁判の多数派意見ともパル判事の全面無罪論とも異なる少数意見を書いたベルト・レーリンク判事をテーマにしたシンポジウムがあった。研究者や法曹関係者ら約100人が参加した。

 故国でいま、レーリンクが脚光を浴びている。きっかけは、三男でアムステルダム大学元教授のヒューゴさん(71)が2014年、未公開の書簡をもとに伝記を出版したことだった。

 レーリンクは、日本軍の行為を容認する考えは毛頭なかった。《恐るべき残虐行為について証人たちの話を聞いている。どうやってこれに耐えたのか》。責任の所在を明らかにし、該当する者を死刑に問う考えを明記している。

 だが、開廷前から、他の判事たちの姿勢には疑念を抱いていた。法廷の進め方をめぐり、彼らの多くとの間で溝が深まった。《法律とあまりに無縁な、あからさまな汚い政治》。レーリンクの目には、彼らが政治的予断で有罪と決めてかかっているように見えた。

 侵略戦争の開始や遂行を問う「平和に対する罪」は従来の国際法にはなかった概念で、当初は《戦争を始めたこと自体を罪に問うのは時期尚早では》と疑問を持った。だが、熟考の末、「平和に対する罪」の考え自体は受け入れた。国際法を育てる立場からだった。

 戦後、国際人道法の発展に意を注ぎ、85年に亡くなった。その2年前にあったシンポジウムでは、東京裁判国際法の発展に寄与した側面にふれ、「積極的側面こそ、われわれの将来にとって重要だ」と述べた。

 ハーグにできた国連の旧ユーゴ国際刑事法廷(ICTY)やICCの活動を目にすることはなかった。東京裁判ニュルンベルク裁判を源流にする場が故国にあることを「父が知ったら誇りに思ったでしょう」とヒューゴさんは語る。

 国際人道法の歩みはなお国際政治の荒波にもまれ続けている。だが、ICTY元長官のセオドア・メロン判事(86)は言う。「こうした裁判が、証拠と法に基づく場だということが受け入れられるようになったのは、東京裁判以来の国際法の積み重ねを通じてです」(ハーグ=梅原季哉)

 ■豪州 対日感情、通商で軟化

 日本の潜水艦が74年ぶりにシドニーへ到着。今回は、潜水艦の売り込みで――。4月、海上自衛隊の潜水艦「はくりゅう」のシドニー入港に際し、地元メディアはこんな論調で報じた。

 日本は唯一、太平洋戦争で豪州本土を攻撃した国だ。国外では約2万2千人の豪兵が日本軍の捕虜になり、泰緬鉄道建設で2800人以上が死亡している。

 そうした経験があったからだろう。豪政府は東京裁判で「天皇有罪」を主張。ウィリアム・ウェッブ裁判長についても「天皇の戦争責任を最後まで主張した」と伝えられることが多い。

 今日の日豪関係からは想像できないほど険悪な対日感情が渦巻いていた。

 キャンベラの豪州戦争記念館には8箱の「ウェッブ文書」が保管されている。連合国軍最高司令官マッカーサーや豪首相への状況説明、他の判事をねぎらうメモなど多様な内容だ。

 《私はどの証人にも、天皇が戦争責任で有罪であることを示すよう問うたことはありません。(中略)天皇の立場をめぐり、米国と豪州の相違を認識したことはありません》(1948年2月11日付のマッカーサーあて書簡)

 豪カーティン大のナレル・モリス博士は「強硬姿勢の豪政府と、天皇を訴追せずに政治利用しようとしたマッカーサーに挟まれ、非常に苦しい立場だったはずだ。ウェッブ個人が明確に『天皇を訴追すべし』と考えていたのは、終戦直前までではないか」と話す。

 豪州で厳しい対日感情が和らいだのは70年代以降だ。きっかけは経済成長を続ける日本との通商関係だった。石炭、鉄鉱石などの資源を輸出し、自動車などの工業製品を入れた。旧宗主国・英国との特別な関係を脱し、アジアの一員としての道を歩み始め、日本はパートナーになった。学術や文化交流へと発展した関係は、分厚いものになった。

 今日、豪州では東京裁判の名を知らない人が多い。ブリスベン郊外にあるウェッブの墓を訪ねる人もいない。カトリック墓地の片隅に並んだ小さな墓石のひとつに、妻とウェッブの名だけが記されていた。(シドニー=郷富佐子)

 ■中国 緊張背景、注目高まる

 「忘れ去られた裁判」。中国では、東京裁判がこう形容されることがある。

 1946年に中華人民共和国は存在せず、当時の国民党政権が判事や検事を派遣したからだ。共産党中華人民共和国を建てたのが49年。その後、台湾との交流が深まるなか、抗日戦争での国民党を評価し、裁判を顧みるようになった。

 「正義は揺るがない。裁判への挑戦は許されない」。2005年の抗日戦争勝利記念式典で、胡錦濤国家主席(当時)が裁判を評価した。念頭には、小泉純一郎首相(同)の靖国参拝があったとされる。

 5年前、上海交通大学東京裁判研究センターを設立。開廷70年を記念するフォーラムを今年4月に開いた。歴史認識や領土問題を巡る日中間の緊張を背景に、日本の軍国主義を告発した裁判が注目を集める。

 日中の緊張関係が緩む兆しはない。中国社会科学院近代史研究所の歩平・前所長は「東京裁判が日中の歴史認識を巡る新たな火種になりかねない」とみる。(藤原秀人)

 ■戦争犯罪人裁く道、開いた 最上敏樹・早稲田大教授

 東京、ニュルンベルク両裁判は国際法におけるビッグバンだ。戦争を行った国家と指導者を裁くことに新たに踏み出した。日独の軍事大国が完敗し、両国の侵略や非人道的行為は裁かねばならないとの広い合意で可能になった。

 膨大な死傷者を出した第1次世界大戦は、戦争観を変えた。国際連盟規約から不戦条約までの流れの中で、侵略戦争は違法という考えは常識になっていた。ベルサイユ条約はドイツ皇帝を戦争犯罪人としたが、オランダがかくまったために、裁判にはならなかった。指導者を裁く法的根拠はあった。

 裁判の意義は、それまであいまいだった国際法上の犯罪を確定させたことにある。平和に対する罪、人道に対する罪を定め、個人の戦争責任を問うた。裁判の中立性は課題として残った。勝者の裁きにしてはいけないというレーリンク判事らの指摘も筋が通っている。その課題は、旧ユーゴ国際法廷以来、判事団の構成で中立性を保つなど、克服されつつある。

 事後法であったことなどの問題点は残るが、より重要なのは、両裁判が戦争犯罪人を裁く道を開いたという歴史的意義ではないか。(聞き手=編集委員・三浦俊章)

 ◆「東京裁判(上)」は5月2日付朝刊で、裁判を戦後日本がどう受け止めたかについて報じました。次回は8月、「植民地帝国の解体」を特集します。
    −−「戦後の原点:東京裁判:下 国際人道法、発展の起点に」、『朝日新聞』2016年06月19日(日)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12416557.html





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