覚え書:「今こそ米原万里:ロシア的風刺、チェコで培う」、『朝日新聞』2016年07月04日(月)付。
-
-
-
- -
-
-
今こそ米原万里:ロシア的風刺、チェコで培う
2016年7月4日
米原万里さん
スラブ的知性は、ユーモアこそ、強権下で生き延びるしぶとい批評の秘訣だと教える。
米大統領選トランプ候補の躍進や英国の欧州連合(EU)離脱、頻発するテロ――。米国発の金融資本主義とグローバリゼーションの足下で抑圧された人々が悲鳴をあげ、新たに生まれる怒りと暴力が、さらに弱い者を蹂躙(じゅうりん)する悪循環に陥っている。
作家・米原万里が生きていたら、この世界のありさまをどう眺めるだろう。少女時代をチェコで過ごし、受け継いだ中欧知識人のDNA。ソ連という対立軸を失った米国の一元論の危うさを、知性的にも、感性的にも見抜いている人だった。
没後10年の今年、絶版本の復刊や、関連本の刊行が相次ぐ。5月、『姉・米原万里 思い出は食欲と共に』を刊行した妹の井上ユリさんは「グローバリゼーションが進んで異文化と合流していくことの喜び、つらさ、おかしみを全部書いてくれた。いまだに普遍性を持つ万里の言葉が、人々に届いて欲しい」と語る。
父は日本共産党の衆議院議員だった米原昶(いたる)。9歳のとき、父の仕事の関係で、一家でプラハへ。14歳まで現地のソビエト大使館付属学校で学び、国際的感性と語学力を磨いた。日本に戻り、大学院卒業後はロシア語通訳に。的確かつときに大胆な移しかえで、エリツィンやゴルバチョフら要人から、余人をもって代えがたい信頼を得る。1992年、報道の速報性に貢献したとして、日本女性放送者懇談会賞を受賞。華やかな容姿と存在感は、黒衣だった通訳のイメージも変えた。
95年、同時通訳の内幕をユーモラスにつづったエッセー『不実な美女か貞淑な醜女か』でデビュー。以後、皮肉の利いた小話や毒気たっぷりのユーモアがまぶされたエッセー、プラハ時代の経験を下敷きにしたノンフィクションや小説を著していく。
「米原文学は、ゴーゴリ以来、連綿と続くロシア風刺文学の伝統の上にある」。そう指摘するのは、東大院時代から親交のあったロシア文学者の亀山郁夫・名古屋外国語大学長だ。亀山さんによれば、19〜20世紀のロシア近現代史は、特殊なユーモアを尊ぶ知的風土を生んだ。「帝政ロシア、スターリン時代と、この数世紀あれほど詩人や知識人を惨殺した国はない。表だった政治批判をすれば流刑地行き。死との隣り合わせという状況下で、権力と迎合しつつも、良心を保つために研ぎ澄ませたのがアイロニー(反語)であり、アネクドート(小話)だった」
そんなスラブ的知性の継承者である米原万里の面目躍如と言えるのが、長編『オリガ・モリソヴナの反語法』だ。オリガ先生は、ソビエト学校時代の実在のダンス教師がモデルで、彼女が「天才!」と褒めれば、それはウスノロの意味。先生の肖像を追ううち、その反語法の影にスターリン時代の過酷な運命が隠されていることが明らかになっていく。独裁者の権力犯罪を問う、類のないラーゲリ(強制収容所)小説だ。
不正義を容赦なく言葉にする勇気は、表現形態を問わず発火した。元外務省主任分析官で作家の佐藤優さんは「インテリゲンチアは、教養があるだけでなく行為も伴わなければならない。米原さんはインテリゲンチアの精神的伝統を見事に継承し、体現した人だった」と振り返る。
卵巣がんにより、56歳の若さで早世。わずか10年の間に彼女が残した著作群は、強権下でいかに精神的自由を保ち、効力のある批評を吐き出すか。その独特の方法を教えてくれる。(板垣麻衣子)
<足あと> よねはら・まり 1950年、東京生まれ。59〜64年、在プラハ・ソビエト学校で学ぶ。東京外語大ロシア語学科卒、東大大学院露語露文学専攻修士課程修了。ロシア語同時通訳として活躍後、95年に文筆家デビュー。ノンフィクションや小説、エッセーを数々残した。2006年5月没。
<もっと学ぶ> 『偉くない「私」が一番自由』(文春文庫)は、盟友・佐藤優さんが選ぶエッセー集。東京外語大卒業論文「詩人ネクラーソフの生涯」が初公開されている。
<かく語りき> 「どこからも文句の来ない、一方的で閉じられた神の言葉であり続けようとする限り、一定の集団を代表する言葉である限り、言葉は不自由極まりないままなのである。偉くない『私』、一個人に過ぎない『私』の言葉が一番自由なのだ」(文春文庫『終生ヒトのオスは飼わず』から)
◆過去の作家や芸術家らを学び直す意味を考えます。次回は11日、芸能リポーターの梨元勝の予定です。
−−「今こそ米原万里:ロシア的風刺、チェコで培う」、『朝日新聞』2016年07月04日(月)付。
-
-
-
- -
-
-
http://www.asahi.com/articles/DA3S12441335.html