覚え書:「寂聴 残された日々:14 善い、悪いの命 「殺せ」命じる宗教などない」、『朝日新聞』2016年07月08日(金)付。

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寂聴 残された日々:14 善い、悪いの命 「殺せ」命じる宗教などない
2016年7月8日

寂庵の庭に咲いたアジサイ京都市右京区
 熊本の大地震の被害もまだおさまらないところへ、また衝撃的なニュースが飛びこんできた。バングラデシュの首都ダッカで、武装集団がレストランを襲い、中にいた外国人が多数死傷させられた。その中で日本人が7人命を奪われたという慄然(りつぜん)としたニュース。殺された人の中には鋭利な刃物で、のどや首を刺されていた人もいたと報じられている。

 コーランを暗唱させられ、できなければ殺したという。テロ殺人者たちは若者で、裕福な家庭に育ち、高学歴だったとか。

 彼らのほとんどは治安部隊の突入で殺害されたそうだが、彼らに殺された日本人が、それで生きかえるわけでなく、理不尽な悲劇はあくまで悲劇のままである。

 殺人者は数カ月前から、家を出て消息を絶っていたというから、すべては覚悟の上の実行だろう。彼らと同年くらいの同国人の青年はイスラムだから逃れよと命じられたが、一緒にそのレストランで食事をしていた外国人の女性2人を見捨てることができず、共に残って捕らえられたという報道も目にした。こうした人間らしい感性の若者もいる国なのだ。いざとなると、人間は本性が出る。本性の尊さも卑しさも、かくしようなくあらわれる。何の宗教に属していようが、人を殺せと命じる宗教などあるはずがない。あるとすれば、それこそ邪教である。

     *

 殺害された7人の日本人の履歴や写真を見ると、痛ましさで涙があふれてくる。27歳の下平瑠衣さん、80歳の田中宏さんも、婚約者のいた32歳の岡村誠さんも、命はそれぞれ一つきりだった。80歳の命も27歳の命も、同じ重さと尊さである。「何か」に与えられ、この世に生まれ出た命である。自分のもののようで、実は自分のものではない命である。

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 「何か」に与えられ、この世に送り出された時に、定命(じょうみょう)までは、生きるはずの命である。外国のテロの若者にむざむざ殺されるような命ではなかったはずだ。地震津波で失われた命も、近頃はむやみに多くなった。遺族たちの口惜しさ、悲しさはどんなに悲痛なものだろうか。

 “代わってあげたかった!”

 私は新聞をくり返し読みながら、紙面の上に思わず涙をぼたぼた落としていた。私はもはや94年も生きのびている。看(み)るべきものは看つくしたし、したいことも十分しつくした。今、殺されても、この犠牲者たちより悲痛ではない。私の死を悲しんでくれるはずの人もすでにみんな死んでいる。因果応報という仏教の言葉は、いいことをすればいい結果が報われ、悪事を働けば、ひどい目に遭うというような単純なものではないらしい。何がいいことで、何が悪いことか、その基準さえ、時代と共に刻々変化している。

 たまたま、参院選の投開票日が目前に迫っている。現在の日本の善い、悪いの定めを、改めて見直し、とくと、考えてみる必要があるのでは。

 ◆作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんによるエッセーです。原則、毎月第2金曜日に掲載します。
    −−「寂聴 残された日々:14 善い、悪いの命 「殺せ」命じる宗教などない」、『朝日新聞』2016年07月08日(金)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12448175.html


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