覚え書:「耕論 性表現と法規制 林道郎さん、平野啓一郎さん、上野千鶴子さん」、『朝日新聞』2016年07月27日(水)付。

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耕論 性表現と法規制 林道郎さん、平野啓一郎さん、上野千鶴子さん
2016年7月27日

ろくでなし子さんの作品をめぐる経緯

 自らの女性器をかたどったアート作品をめぐり、作者の刑事責任が問われている。この性表現は犯罪なのか。その根っこにある問題を、研究や表現の最前線にいる人たちに聞いた。

 ■多様な美術、司法は硬直 林道郎さん(上智大学教授)

 誰を傷つけることもなく、見たくない人は見ないですむ配慮もされた表現に対する司法の介入です。明らかに行き過ぎで、一部でも有罪になったのは、ナンセンスとしか言いようがありません。

 アーティストのろくでなし子さんが、自らの性器をかたどって装飾を加えた作品「デコまん」と、性器の3Dデータを、陳列したり配布したりしたとして起訴されました。

 一審判決で「デコまん」は無罪になりましたが、制作、流通のどこをとってもポルノと言えるものではない。むしろフェミニズム・アートと位置づけられるものです。

 1960年代、女性は「描かれる側」だった美術界で、「自身の体を自身の手に取り戻す」と考えた国内外の女性アーティストが象徴として女性器をモチーフにした作品をつくり始めます。ろくでなし子さんの作品も、この経緯を想起させます。その意味でいまだ後進的な日本での素朴な生活実感から出たもので、本人の漫画や言論活動も含め、問題提起的な美術表現です。

 現代美術の表現は多様化し、一方で、ネットには性器を含むポルノ画像があふれています。それなのに、捜査当局も裁判所もわいせつ性について「性器が見えているか」を最も重要な判断基準とする姿勢を変えていません。時代の変化に対応する難しさと、わいせつ罪を規定する刑法175条が元々持つあいまいさが合わさって、判例踏襲と硬直した性器中心主義を繰り返しているように見えます。

 3Dデータは「性器そのもの」として有罪になりましたがここにも矛盾があります。

 データ化は、女性器型ボートをつくるために必要な作業で、この計画への出資者に謝礼として配られました。作品の資金調達や制作過程を含めた全体を芸術活動とすることはプロジェクト・アートといい、多くの事例があります。

 最高裁はかつて「芸術性がわいせつ性を緩和することがある」との判断を示しており、データ配布を芸術の一環として考慮することはできたはずです。しかし今回の判決は「前後の文脈は考慮せず、データそのものだけで判断すべきだ」とした。一方、女性器の医学標本は、医学のためという文脈が考慮され、摘発されることはない。この非対称性には疑問を持ちます。

 芸術を含む表現の自由が、憲法に書き込まれているのは重要なことです。今の価値観が絶対ではないと疑いをもち、自己批判的な意見が出ることを保障している。芸術はその時代の価値観に挑戦し、それを取り込むことで発展してきました。これは社会にとって大きな推進力です。

 児童ポルノヘイトスピーチなど誰かを傷つける表現を除き、表現への司法介入は最小限であるべきです。(聞き手・千葉雄高)

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 はやしみちお 59年生まれ。美術史・美術評論の専門家として今回の裁判で証言。著書に「死者とともに生きる」など。

 

 ■社会の欺瞞、挑発で問う 平野啓一郎さん(小説家)

 ろくでなし子さんの作品と、性器にモザイクがかかったアダルトビデオ(AV)を比べれば、大半の人がAVの方をわいせつだと思うでしょう。刑法175条の定める「わいせつ性」という概念、規定がおかしな状況にあることは明白です。

 日本人は不思議なほど、わいせつの問題を性器中心でとらえる。春画では性器が非常に誇張して描かれますが、これも日本独特です。外国映画でも、日本で公開されるときは性器にモザイクがかかる。かえって「わいせつなもの」と意識化させています。

 一方、ネットには法律上、見られるはずのない性器の写真や動画があふれている。法律が現実に対応できていないからこそ、変に機能させようとしている力を感じます。

 そこに潜んでいるのが「公益」という発想です。いまの憲法改正の議論でも、公益と公共の福祉の混同が見られますが、本来は全く違う概念です。公益は、社会的な合意もなしに一般人にとっての「利益」が定められ、強制されることで、人間の多様性を脅かすものになりかねません。

 一方、公共の福祉は、個々人の多様な利害調整のための概念です。わいせつの問題の解決に役立つのはこちらで、見たくない人に見せない、子どもには見せないというゾーニングなどが考えられます。

 ろくでなし子さんはその名からも、社会のまじめさとか欺瞞(ぎまん)を挑発する姿勢を持っているのでしょう。その作品は、性器中心主義が結局は男性中心主義の価値観ではないかと社会を挑発しています。

 芸術家は時に、社会を挑発する表現をするものです。社会システムは主に経済合理性で設計されていますが、人間は複雑で、そこに組み込まれない部分を持っている。

 合理的な秩序が取りこぼしているものを、芸術が表現することで救われる人もいる。ささやかな作品一つで、社会がそれまで排除してきた価値観を包摂し、より複雑な現実に対応した豊かなものになることもある。そこに芸術の魅力を感じます。

 挑発的な芸術といっても、発表によっても従来と同じ事態しか生まないなら、二流でしかありません。今回は性器中心主義の問題や、3Dプリンターという技術について新しい問題を提起した。意義ある作品だったと思います。

 もちろん、芸術に携わる側も、社会的に弱い立場の人たちを傷付けることには敏感でなければなりません。ただ、ろくでなし子さんの作品は誰も傷つけていない。取り締まられたのは「公益」に反するという発想からでしょう。

 好意的に見れば、その現象自体が風刺として作品になっています。今の社会の色々な問題がはからずも現れたのが今回の事件だったと思います。(聞き手・千葉雄高)

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 ひらのけいいちろう 75年生まれ。デビュー作で芥川賞。展覧会に携わるなど美術に造詣(ぞうけい)が深い。近著に「マチネの終わりに」。

 

 ■消費の形、作者は関心を 上野千鶴子さん(社会学者)

 今回の事件で、私は「いまだに女性器は眉をひそめられる存在なのか」と正直、ショックを受けました。

 ろくでなし子さんは、法廷では、完全に無罪であるべきだと思います。男性に所有され管理されてきた女性器を女性自身に取り戻そうというのは、フェミニストが60年代から取り組んできたテーマでした。それを一人の若い女性が思いついてアクションに移した。司法が介入するべき問題だとも思いませんし、処罰の対象になるとも思えません。

 ただ、自分の性器の3Dデータをクラウドファンディングの寄付者に提供したことについては、3Dデータを「性器そのものだから」として有罪とした司法の判断とは離れた立場から疑問を持ちます。

 司法は「女性器はわいせつか」という命題を立てた上で「芸術性がわいせつ性を緩和する」と考えてきましたが、社会学的には無意味です。解剖学も医学も芸術も文脈次第でいくらでもわいせつになる。芸術に価値を与えるのも、わいせつ物にするのも、作品がどう消費されるか、という文脈にあるからです。

 3Dデータの配布は「プロジェクト・アート」だったとの主張ですが、大事なのは「アートだったかどうか」よりも、それがどう消費されたのか、です。

 ネット上のデータは、表現者の意図を無視して世界中に広がる。だからこそ、フェミニストはこれまで、作品が意図しない形で消費されないよう、公開する場を女性限定にするなど慎重な配慮をしてきました。ネットや複製技術が進化した現代では、より慎重さが求められて当然です。

 「性器を自分自身に取り戻す」と言いながら、大切な性器のデータがあずかり知らぬ形で消費されても関知しないというのは無責任です。フェミニストたちが今回の件で、沈黙しがちだったのは、男性に利用されかねない点に違和感を持ったからでしょう。

 なにより、アーティスト自身が傷つかないのでしょうか。彼女の無防備さに、セクハラが蔓延(まんえん)する男性中心の社会で「わたし、これくらいは大丈夫なのよ」と言いながら、感受性を鈍くして生き延びてきた現代女性の「鈍感さ」を感じます。セクハラをすると反応する人型ロボットが世に出て、デザイナーが女性だと話題になりましたが、通底するものがあります。

 60年代から半世紀、女性の社会進出は進みましたが、ごく普通の女性が援助交際などの性産業にかかわるハードルは下がる一方です。女性が「消費される性」であり続ける現実はむしろ、悪化している。女性が「性器を自分に取り戻す」こと自体はすばらしいですが、それがセクハラ文化につけこまれる可能性にも敏感であってほしいです。(聞き手・市川美亜子)

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 うえのちづこ 48年生まれ。NPO法人WAN理事長。立命館大教授、東大名誉教授。近著に「おひとりさまの最期」など。
    −−「耕論 性表現と法規制 林道郎さん、平野啓一郎さん、上野千鶴子さん」、『朝日新聞』2016年07月27日(水)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12481291.html

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