覚え書:「にっぽんの負担 公平を求めて 「お金ない」治療を断念」、『朝日新聞』2016年08月08日(月)付。

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にっぽんの負担 公平を求めて 「お金ない」治療を断念
2016年8月8日

生活保護を受け、糖尿病の治療を再開した女性。「お金がない。もう死んでもいいと思った」=埼玉県内の自宅

 「このまま帰る。何もしないで」

 救急で運ばれた時のことはなにも覚えていない。看護師らに後日聞くと、こうくり返していたそうだ。

 3年前の夏のことだ。埼玉県三郷市に住む女性(63)は、50代半ばから糖尿病を患っていた。だが、救急搬送される1カ月前に血糖値を下げるインスリンの注射をやめ、その影響で心臓の状態が悪くなっていた。

 注射をやめたのは、お金がないからだった。

 女性は19歳で結婚し3人の子を産んだが、40代で離婚。その後は1人、パン工場や清掃工場のパートで生計を立てた。10年ほど前、居酒屋で知り合った男性と同居を始めた。その頃からだるさやめまいを感じ、仕事を続けられなくなった。糖尿病と診断され、ほかの病気も含めた月の出費が2万数千円にもなった。

 数年後、同居の男性も腰痛で早期退職。退職金を切り崩して暮らしたが、自分の医療費が悩みのタネだった。病気はだんだん悪くなる。血液をきれいにする「人工透析」が必要になりそうだが、とても負担できないと思った。

 「これ以上、もう迷惑かけられない。長生きしたって仕方ない」

 インスリンをやめてから、めまいがひどくて立てなくなった。寝たきり生活になり、体重が20キロ減。1カ月ほど経った深夜、体の震えで目を覚ました。心臓を中心に体の左半分ががくがく震えた。もう終わりだ。広告の裏に走り書きした。〈無縁仏にお願いします〉。台所で突っ伏しているのを男性が見つけ、119番通報した。

 搬送されたのは、千葉県流山市東葛病院。女性が治療を受けている間、病院の医療ソーシャルワーカー、柳田月美さんが男性に切り出した。「本人は帰りたいと言ってますが、このまま退院したら命はありません」

 男性は絶句した。「そんなに悪いんですか! 高血圧としか聞いてなかった」。貯金はほとんど底をついていた。柳田さんのすすめで生活保護の受給を決めた。数日後、病室で目を覚ました女性は、男性から「金の心配はするな」と聞き、涙を流した。

 いま、女性は退院し、週3回透析治療に通う。生活保護を受け、必要な医療は受けられる。容体は安定した。助けてもらったのはありがたいが、こうも思う。「私なんかが生きちゃっていいのかしら。だって医療費も税金。病気の人は大勢いる。私の分をほかの人に回してあげなきゃいけないんじゃないのかな」

 ■制度知らず、手遅れも

 東葛病院では、受診を我慢してしまったことで手遅れになった可能性がある患者もいた。

 警備会社に勤める50代女性=千葉県流山市=は2014年11月の末、胸の痛みに耐えきれず、病院を訪れた。胸のしこりからウミが出て、異臭がしていた。しこりに気づいたのは3カ月前の8月。放っておいたら、食事がのどを通らないほど痛くなり、救急を受診したという。

 医師は「乳がん」と診断。すぐに抗がん剤治療を始めようとしたが、女性は「仕事を休みたくない」と言って治療をためらった。

 ソーシャルワーカーの豊田恵太さんが暮らし向きを聞くと、「仕事が生きがい」という理由のほかに、お金の問題があることもうかがえた。

 しばらく前に夫と離婚し、子どもと2人暮らし。ショッピングモールの警備をしていた女性の月収14万〜15万円が、一家の主な収入だった。アパートの家賃5万3千円をひくと日々食べていくのがやっとで、貯金はほとんどゼロだった。国民健康保険料も滞納し、保険証は交付されず、国保の「被保険者資格証明書」を持っていた。

 保険証があれば病院での窓口負担が3割だが、資格証明書の場合いったん窓口で医療費全額を支払う必要がある。大金を工面することは女性には難しかった。仕事を休めば1日分給料が減るのも、受診を控えた理由だった。

 豊田さんのすすめで生活保護を申請。治療を始めた。だが、半年以上の治療も実らずがんは肝臓などに転移した。昨年秋、これ以上の治療が難しく、医師から「余命2カ月」と言われた。

 「私が我慢しちゃったからいけなかったんだよなあ」。病院の談話室で、いつもは明るい女性が寂しそうな表情を豊田さんに見せた。昨年11月、息をひきとった。

 お金がなくても受診できる仕組みはある。生活保護の利用者は必要な医療費が行政から支給される。生保受給者でなくても、貧しい人に対して医療費の自己負担分を減免する「無料低額診療」という制度もある。東葛病院も、無料低額診療を行っている。

 だが、亡くなった女性はこれらの制度を利用できていなかった。

 豊田さんは「まだ腫瘍(しゅよう)が小さい段階で受診していれば、女性はがんの摘出手術ができたかもしれない」と受診が遅れたことを悔やむ。「無料低額診療や生活保護制度を周知していかなければ、貧しい人が医療にかかれないケースは今後も続いてしまう」と危惧する。

 ■「国民皆保険」にほころび

 「国民皆保険制度」にほころびが見える。誰もが国民健康保険や「協会けんぽ」などの公的医療保険に加入し、1〜3割の窓口負担を支払えば必要な医療を受けられるという仕組みだ。

 だが、実際には保険料が払えないために正規の保険証を持っていない人や、保険に入っていても窓口負担が払えず受診していない人が、少なからずいる。受診の回数を減らしたり、高額な治療を断ったりする人もいる。

 民間シンクタンク「日本医療政策機構」の08年の調査では、1年間に費用が理由で医療を受けなかった経験がある人は、世帯年収800万円以上かつ金融資産2千万円以上の人々で18%。一方、年収と金融資産ともに300万円未満の低所得層は39%だった。

 収入や資産が少ない人々にも最低限の生活を保障するのが生活保護だ。だが、生保を受けられる世帯のうち、実際に保護を受けている割合(捕捉率)は1〜3割程度とされる。

 貧困問題に詳しい都留文科大学の後藤道夫名誉教授の推計では、世帯収入は保護の基準以下なのに実際は保護を受けていない人は国内で2千万人前後に上る。後藤氏は「多くの人々が福祉制度のすき間にいる。病気にかかった場合、受診をためらう人がたくさんいるはずだ」と指摘する。

 ■<解説>安全網の構築が不十分

 貧しさが理由の「受診抑制」が見受けられる現状は、セーフティーネット(安全網)の構築がいまだに不十分なことを示している。急いで改めるべきだ。

 最後のとりでは生活保護だが、幅広く貧困層をカバーできているかは疑問だ。収入が少なくても、一定の貯金があったり、車などの資産を持っていたりすると受給資格外とされる実態がある。条件がそろっても偏見をおそれ、申請しない人もいる。立命館大の唐鎌直義教授(社会保障論)は「英国の捕捉率は8割超。資産や貯蓄の条件を緩和して生活保護を受けやすくするべきだ」と指摘する。

 その上で、生活保護にかからない人の医療をどう確保するか。唐鎌氏は「収入が少ない人の保険料負担を引き下げたり、医療費の窓口負担額を軽くしたりする仕組みを進めるべきだ」。

 受診抑制はお金の問題だけではない。東京大学の橋本英樹教授(公共健康医学)は「むしろ本当に必要なのは、病気の人に様々な支援制度を知らせて受診につなげる社会的なサポート体制だ」と話している。

 (牧内昇平)

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