日記:なぜ吉田茂は軍人を蛇蝎のごとく嫌ったか

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 なぜ吉田は軍人を蛇蝎のごとく嫌ったかについて、その心中を推測していくと、結局は<軍人は人間を知らない。政治を知らない。そして歴史を知らない>という侮蔑感につきあたる。一言でいうなら、「軍人は教養人ではない」という意味だ。むろんこれは日本の軍人をさしているわけだが、世界歴史が英米主導で動いているとの抜きがたい信念をもつ吉田は、英国の軍人に対しては別な見方をもっているのである。その著(『回想十年』)には、以下のようにある。
 「英国などでは、貴族や富裕階級の子弟が、軍人軍職にあることを名誉と考え、生活または職業のためでなく真に公職に奉ずる考えから、高い教養を身につけて軍人を志すものが多く、これは内外に亘る常識を備えており、伝統的にも軍人が政治に関与し、または関与してもって立身出世の手段とするを潔しとしない風がある」
 それに比べて、日本の軍人は……という嘆息がつづくのだが、「一般政治や国際外交の常識に欠けるところが生じて、外交を誤り、国を謝ることになる。大東亜戦争などは誠によい例である」という怒りを顕にしている。日本軍人の無教養な政策の選択肢による惨状の清算を担ったのが自分であると認めるのである。軍人には「広い視野と豊かな常識」が必要であるにもかかわらず、分をわきまえずに政治に深入りしたことが、惨状を生んだというのである。
 吉田は自らの周辺に軍人を寄せつけなかった。とくに昭和十年代初めにイギリス大使を勤めていたときに、駐独大使の大島浩が親独派の軍人を率いて三国同盟にひたすら邁進するのを苦虫をかみつぶすように見つめていた。ただ、そのころにイギリスで駐在武官を勤めていた辰巳栄一などわずかの親英米派の軍人には信頼を置いていた。彼らこそ「教養ある良識派の軍人」と認めたからである。
 つけ加えれば、吉田は戦後になって警察予備隊をつくるときに、辰巳をアドバイザー役にして、旧軍の良質な部分は温存しようと考えている。
 戦争とは政治の延長といった類の言説を用いるまでもなく、戦争の内実にはなべてそれぞれの国の歴史や伝統、文化、道徳規範が反映する。その反映を次代の者は鏡としながら、教訓を学びとるというのが通例であろう。吉田が指摘しているのは、鏡に映る昭和陸軍の像が日本のすべてではないという意味である。もともと戦後民主主義の空間は、この教訓を学びとるという約束事を怠ったために、奇妙な構図を現在もわれわれの前に表出しているのである。
    −−保坂正康『陸軍良識派の研究』光人社NF文庫、2005年、240ー241頁。

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 この五十年、人命尊重は人命安全主義にと変わり、この社会にタテマエとして貫徹してきた。死は忌み嫌う通過儀礼として、生者の目からは遠ざけられた。病院で、老人ホームで、生者には見えない場所で、生者に不安を与えない仕組みで死者は消えていった。あるいは人命尊重とは「一分一秒でも長く生きる」という論理だと強調され、医療現場では本来ならすでに死者となっているにもかかわらず、機器によって人工的に長らえさせられているという矛盾も生んでいる。このような時代状況に、「軍事」が生理的嫌悪を伴って口にするのもはばかれる用語となっていったのも当然であった。
 吉田が防衛大一期生にむかって、「君達は感謝もされないし、尊敬もされないだろう」といったのは、この光景を予知していたからであっただろう。

 「生は有限」であることを自覚し、ときに人は自らの意思とは異なって「死を迎える」ことがあると知るのは、生者の義務である。ところがこのあたりまえのことに気づかないふりをし、ときに愚かな人は気づかないことがヒューマニズムなどと錯覚していたのである。
 軍事について考えることは、じつは、人間存在そのものを理解する手がかりとなる。その手がかりさえも拒みつづけてきた戦後社会は、軍事は人命尊重主義とは矛盾するものではなく、それはときにそのイデオロギーを擁護するものだという教訓に目をつぶっていた。「人命尊重」という錦旗によってなしくずしに生の解放が進み、軍事を考えることを放棄したがゆえに、歴史の内実やナショナリズムや文化や伝統について思いをめぐらせる能力を失ってしまった。たとえば、軍事を批判したり肯定したりする能力(近代国家には軍事は不要であると立論することもさまざまな能力を養うはずである)をもたなかったツケは、いじめという教育問題からPKO問題まで、はてはオウム問題までも一過性の出来事としてやりすごすほどこの社会は鈍感になっていることで証明されている。
 吉田は、日本人は本来楽天主義者であり、好学心に富む性格をもっているといい、「日本人は戦争によって多くの財産を失ったけれども、最も大切な能力である人間の能力は失われていなかった」ともいう。経済復興をなしとげたのはまさにそれだというが、これからは「夢をもつこと」が必要だとも喝破した(『日本を決定した百年』)。夢とは何をあらわすのか、吉田は明らかにしていない。だがその夢とは現在のような経済社会であり、それに裏打ちされた道徳規範の国家という意味でもあった。
 だがその吉田も、日本社会がもっとも重要な「人はなぜ生きるか」という個人的命題に思いを馳せて、政治や軍事、経済に取り組むべきとの論は提示しえなかった。軍事に関していえば、吉田に代表される教養人も、そこに達するまでの人間的な幅はもちえていなかったといえるのである。昭和陸軍について明快に分析する視点はもちえなかったと談じることができる。
 昭和陸軍の軍人の功罪を見究め、それを歴史上に位置づけるのは、吉田の説いた見方を参考にしながら、良識派軍人や兵士の心情を性格に理解することではないだろうか。
    −−保坂正康『陸軍良識派の研究』光人社NF文庫、2005年、248ー249頁。

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