覚え書:「インタビュー これからの建築 建築家・伊東豊雄さん」、『朝日新聞』2016年09月15日(木)付。
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インタビュー これからの建築 建築家・伊東豊雄さん
2016年9月15日
自然と人間を分け隔てる近代の思想から転換すべきではないか。世界的な建築家、伊東豊雄さんは言う。東日本大震災の復興に関わり、新国立競技場のコンペで敗れ、いま熊本で木造の仮設住宅づくりを進めている。つくる人から、つなぐ人へ。経済成長が見込めず、人口も減少する時代の建築家像についてもたずねた。
――熊本地震の被災地でいま、どんな仮設住宅をつくっているのでしょうか。
「殺風景で無味乾燥なプレハブではなく、血の通った住まいを提供したい――。蒲島郁夫県知事の意向もあり、約4千戸の仮設住宅のうち15%を木造にしました。日本はいまや災害大国ですから、被災時の生活の質(QOL)にもっと目を向ける必要がある。その可能性を示せればと考えています」
――「血の通った仮設住宅」とはどういうものですか。
「熊本産の木材で、地元の大工さんが建て、鉄骨よりはるかに温かみがあります。棟と棟の間隔を従来より1・5〜2・5メートル広げ、3棟ごとに縦の通路も設け、各戸に掃き出し窓と縁側をつけました。見知らぬ人々が気軽に声をかけ合って、孤立せずに憩える環境を、と考えたのです。ただ、材料や労働力を確保しきれず、全戸とはいきませんでした」
「また、仮設住宅50戸ごとに、『みんなの家』という集会所も造ります。81棟すべてが木造で、縁側や畳の間を設け、各棟の前庭に桜の木も植える予定です」
――「みんなの家」という名には温かい響きがありますね。
「東北に建てた『みんなの家』がモデルです。東日本大震災の直後、仙台の集会所に行ったら、鉄骨にクロスを貼っただけの壁に安物のカーペット、片隅に座布団が積まれ、テレビが1台あるだけでした。寒々とした空間を見て、家を失った人が心を温め合える場所をつくりたい、と思ったんです。いわば、断ち切られたコミュニティー再生の拠点です」
「小さくても美しく、心地良い空間を生み出すのが建築家の仕事だと思いました。被災者の要望を聞き、施工者とも協力してつくった。みんなによる、みんなのための建築です。東北でこれまで15棟建て、その第1号に木材と資金を提供してくれたのが熊本県でした。建築を通じてまちづくりを進める熊本県のアートポリス事業で私がコミッショナーを務めている縁から、手を貸してくれたのです」
――その熊本で、今度は仮設住宅も木造にしたのですね。
「国は『なぜプレハブでないのか』と渋ったそうですが、熊本県が粘り強く説得してくれたと聞いています。ただ、その前にも壁はありました。地震の2週間後にはもう、従来のプレハブ仮設を建てる準備が始まろうとしていたのです。一刻も早くという気持ちはわかりますが、5、6年暮らすことを考えれば、住み心地やコミュニティーとしての機能は重要です。鉄骨のプレハブを並べるより1カ月ほど工期が延び、コストも多少割高ですが、木造の方がはるかに居住性は高い。たとえ1カ月遅くなっても木造の良さには代え難いのでは、と思いました」
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――仮設住宅の本質は居住性とコミュニティーづくりにある、と考えたんですね。一方、記憶に新しいのは、伊東さんが敗れた新国立競技場のコンペです。どんな思いを表現しようとしたのですか。
「1964年の東京五輪のとき、僕は大学4年生でした。建築学科の先生でもあった丹下健三さんが建てた代々木の体育館が印象的でしたね。二つの体育館をはさむ広場のデザインや人が流れる動線と建物がうまく合致して、しかも構造的に非常に斬新でした。ただ、あのときが、日本の近代化の最初のピークだったように思います。それがいま、近代主義思想そのものが破綻(はたん)しかかっている。グローバル経済のもとで似たような高層ビルが乱立し、江戸以来の地域性や歴史性が消えつつある。私が新国立のコンペに挑んだのは、そうした現状へのアンチテーゼを示すためでした」
――アンチテーゼとして、何を打ち出そうとしたのですか。
「人間は自然に打ちかつことなどできない。そう教えられたのが3・11だったはずです。にもかかわらず、復興計画では津波を跳ね返す巨大防潮堤と、かさ上げ、高台移転の3点セット。技術で自然をコントロールできると考える驕(おご)りは変わっていない。地域ごとの特徴や歴史を無視して、まったく同じ計画を進める均質主義。それを問い直したい、と思いました」
――具体的には?
「新国立競技場がつくられる神宮の杜(もり)は大都市の真ん中にありながら、資本主義や政治権力が侵入できない聖地だと思うのです。その極めて特殊な地域性や歴史性を定義し直すことが、スタジアムをつくる最大の意義だと考えていました。また、スタジアムの外の自然を内部に取り込み、できるだけ自然エネルギーに頼ることも目指した。その一つが、競技場の周囲に水場を設け、その上を通って涼しくなった風が、穴の開いたれんがからスタジアムの中へ流れ込むという設計でした」
――内と外を溶け込ませる、という発想ですね。
「近代の特徴を一言で言えば、分け隔てるという思想です。そもそも建築とは必然的に内と外を分け隔てるものではあるのですが、自然との間に明確に壁を設け、自然から自立した空間をつくろうとしたのが近代でした」
「江戸時代まで、日本人に壁をつくるという発想はなかったと思います。縁側や格子戸で外の通りともゆるくつながり、季節にも敏感でした。僕がマンションで飼っている柴犬(しばいぬ)を見ていると、暑いときは玄関のたたきに寝転がり、寒いとひなたぼっこできるところに移り、日に何度も居場所を変えるのです。人間もかつてはそうして暮らしていたんですね。それが近代とともに、寝室や子ども部屋のように機能別に居場所を分けた結果、人と人、人と自然が切り離された。近代主義を全否定するつもりはありませんが、もう一度ゆるやかなつながりを取り戻し、自然との絆を回復する。そんな自然環境に開かれた競技場をつくりたかったのです」
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――しかし、2度敗れました。
「1回目は東京五輪の招致活動中だったこともあって、応募要件を外れた部分があったにもかかわらず、ひたすら派手なザハ案が選ばれました。建設費の高騰から仕切り直しになった2回目は、予算と工期ばかりが重視されました。いずれも、何を目指してつくるのか、という根本思想を問われることはまったくなかったように思います。国家プロジェクトとしては異例です。審査プロセスも不透明で、どの審査員がどう評価したのかすら公開されていない。神宮一帯をどうするか、という全体ビジョンも見えません」
「新国立に限らず、私たちは、目の前の『いま』に縛られるあまり、時間に抗(あらが)って立ち止まることができなくなっているように思います。本質的な議論が起きない不思議な社会だな、と感じます」
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――そもそも人口が減り、財源も限られるなかで、巨大な公共建築を造る時代そのものが曲がり角に来ているようにも思います。
「日本中、空き家だらけですから、古い建物をどう補強しながらリノベーションするかにもっと目を向けるべきです。新たに建てられなければ、壊すのではなく、つくり直し、使い手となる住民がどのように使いたいのかを聞いて、一緒に考えながら進めていく。そうしなければ、建築は使われないままになってしまいます。これからの時代の建築家には、発注者である行政と利用者である住民をつなぐ通訳兼コーディネーターとしての役割も求められるのです」
――建築家の役割が変わっていくということですね。それには時間も手間もかかります。
「でも、それが大事なんだと思います。実際、『みんなの家』はみんなで考えながら作りましたから。さらに、計画から施工までプロセスを透明化することも重要です。最近、私が審査に関わった、広島・宮島口のフェリーターミナル建て替えのプロポーザルでは、設計者のインタビューを公開しました。審査する側は問題意識や説明責任を問われます。そうして決まったことなら、住民も納得して受け入れやすいでしょう」
――みんなでつくりながら進むとき、「近代」の先には、どんなイメージがありますか。
「この先に目指すのは、自然や時間との調和だと思います。僕は自分の中に二つの時計を持っています。ここ5年ほど、瀬戸内海に浮かぶ大三島という島に通っているのですが、自然に囲まれて、ゆったり流れる時間に身を置いているとイライラすることがない。少し長い目で次の世代、その次の世代のことを考えることができるんです。この時間の感覚は貴重ですね。僕よりもむしろ、一緒に行っている若い人たちのほうが敏感です。中心から離れたところに視点を置くことで、次代のヒントが見えるように思います」(聞き手・諸永裕司)
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いとうとよお 1941年生まれ。2012年、ベネチア・ビエンナーレ国際建築展金獅子賞、13年にプリツカー建築賞を受賞。近刊に「『建築』で日本を変える」。
−−「インタビュー これからの建築 建築家・伊東豊雄さん」、『朝日新聞』2016年09月15日(木)付。
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http://www.asahi.com/articles/DA3S12559452.html