覚え書:「終わりと始まり アボリジニの芸術 人と土地をつなぐ神話 池澤夏樹」、『朝日新聞』2016年10月05日(水)付夕刊。

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終わりと始まり アボリジニの芸術 人と土地をつなぐ神話 池澤夏樹
2016年10月5日 

 明治のはじめ、西欧語に対応する日本語が多く作られた。「科学」も「哲学」も「思想」もその時に生まれた。先人たちの苦労が日々役だっている。

 しかし、ちょっと惜しかったと思うものもいくつかある。例えば、「権利」の本来の意味は「正しい」ということだ。正しいから要求できる。そこに利の字を使ったために、この概念はどこか物欲しげになってしまった。「権理」であったら、理は「ことわり」だから、もっと堂々と要求できたのに。

 「文明」では最も大事な「都市」のイメージが伝わらない。人間は農耕を始めて余剰な食糧を得、農業から解放された人々が集まって都市を作った。人間とモノの高密度が知的な進歩を促した。今の都市は縦方向にも伸びて、農村よりも何桁も大きい人口密度を実現しているし、それを我々は通勤電車で体感している。

 古代以来さまざまな都市が栄えたが、どこもいずれは消滅した。問題はエネルギーで、薪を使っていれば周囲の森を使い尽くしたところで都市の寿命は終わる。現代人がなおも原発に頼るか太陽光や風力に移行するか、悩んでいるのも、これが我らの子孫たちの命運を左右するからだ。

 (そして、日本を動かしている面々は既得権益にしがみつくばかりで、柔軟性に欠け、この国の未来をいよいよ暗いものにしている。)

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 数万年前から文明に依(よ)らずに生きてきた人たちがいる。オーストラリアのアボリジニ(先住民)。

 彼らは遠い昔にあの大陸に渡り、その後は地殻変動で他の地域から隔離されたまま、延々と世代を重ねてきた。

 雨が少ない土地なので農耕はむずかしい。狩猟採集で生きることになるけれども、密度が薄いので移動を続けなければ充分(じゅうぶん)な食糧が得られない。オーストラリアには馬やラクダやリャマのような駄獣がいなかったので、人は持てるだけのものを持って旅を続けた。都市とも文明とも無縁な歴史。

 その代わりにかどうか、彼らはとても精緻(せいち)で壮大な神話体系を作り上げた。世界解釈としての神話である。世界は遠い過去に創造されたのではなく、人間の動きと共に今も創造されつつあり、それは未来へも続く。

 大事なのは人間と土地との絆だ。すべての土地に固有の神話があって、人間はいわばそれを鋤(す)き返しながら旅をする。そのルートは歌で記憶されるからソングラインと呼ばれる。

 更に彼らは絵画に長(た)けていた。今も多くの岩壁画が残っていて、その規模と完成度と創造性は目を見張るほど。文明がなくとも芸術は生まれる。芸術は人間そのものに属しているから。

 何万年にも亘(わた)る彼らの生活を壊したのはイギリス人だった。「文明」を持ち込み、アボリジニを蔑視し、定住を強い、子どもたちを親から隔離した。彼らを二級の国民の身分に押し込めた。

 事態が変わったのは、一九六七年に市民権が認められてからだ。二〇〇八年にはケビン・ラッド首相は彼らに公式に謝罪した。この間に彼らの人口は三十万から七十万まで増えた。教育水準も高まり、例えば医師になる者も増えて、人口比ではオーストラリアの平均を凌(しの)ぐという。

 彼らの地位回復を支えたものの一つに絵の才能がある。優れた画家が次々に輩出し、世界中の美術愛好家の注目を集めた。伝統的な様式とアクリル絵具(えのぐ)の出会いが見事な花を咲かせた。

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 一九〇六年、ある男が北の牧場地から南の食肉市場まで一本の道を造ろうと思い立った。鉱山労働者の食糧として牛を追って運ぶ千八百五十キロの道で、この男の名をとって「キャニング牛追いルート」と呼ばれた。

 この道は途中、多くのアボリジニの聖地を縦断するもので、さまざまな軋轢(あつれき)を生み、弾圧を生んだ。

 ほぼ百年たって、この歴史をアート活動で再現しようと、「ワンロード」という企画が実行された。アボリジニのアーティストが参加して、みんなで絵を描きながらこのルートを辿(たど)って旅をする。絵はそのまま父祖の記憶であり、神話である。

 この時に制作された作品百二十七点のうちの三十四点が日本にもたらされて展覧会が開かれている。

 ものすごく抽象的で、その一方で歴史という事実の裏付けのある具体的な、つまり人間の思考の全領域をそのまま表現するような絵。イメージと説明の文章を合わせて鑑賞する――「とてもたくさんのジルジ〔砂の丘〕が、私たちのカントリーにある。登っては降り、登っては降りなくてはならない。白人たちはそれにうんざりしている!」という文はそのまま詩である。

 「ワンロード 現代アボリジニ・アートの世界」展は千葉県の市原湖畔美術館で開かれている(来年の一月九日まで)。その後は来年の四月七日から釧路市立美術館で開かれる。
    −−「終わりと始まり アボリジニの芸術 人と土地をつなぐ神話 池澤夏樹」、『朝日新聞』2016年10月05日(水)付夕刊。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12593954.html





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