覚え書:「インタビュー 体制内で見た文革 天津社会科学院名誉院長・王輝さん」、『朝日新聞』2016年10月20日(木)付。

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インタビュー 体制内で見た文革 天津社会科学院名誉院長・王輝さん
2016年10月20日

王輝さん
写真・図版
 中国で文化大革命が発動されて50年。多くの中国人が信じた共産主義の理想は色あせ、社会は大きく変質したが、共産党政権は依然として苛烈(かれつ)な権力闘争のなかにある。中国は何を学び、何を失ったのか。党幹部の立場で文革を経験し、その後も体制内で歴史研究を続ける天津社会科学院の名誉院長、王輝氏に話を聞いた。

 ――文革は、毛沢東主席が大衆を動かした政治運動です。多くの若者が「紅衛兵」となり、荒廃した経済の立て直しを主張した党指導者らを「資本主義の道を歩む実権派」などと打倒しました。王さんも党幹部として、造反派や紅衛兵に何度も捕まったそうですね。

 「赤い腕章の人々に連行され、一時拘束されました。彼らは私の上司の政府指導者を捜しており、私に居どころを教えるように迫りました。自由を失うことが、いかに苦痛かよく分かりました」

 ――造反派は、党委員会も襲撃し、行政機能も止まりました。

 「社会は混乱し、あらゆる規範を失っていました。恐怖でした。文革の初期、批判を受けた党幹部の自殺が最も多かったのです。私は(文革推進の目的で新たに設けられた権力機構である)文革弁公室の副主任として毎日、誰々が川に飛び込んだといった報告を受け続けました。町中が緊張してコントロールを失っていました」

 ――幹部として何を感じましたか。

 「無力感、むなしさです。どうしたらいいか分かりませんでした。行政の仕事ができる状況ではなく、ただただ役所で時を過ごしていました」

 ――秩序は軍の出動によって回復しました。

 「もし中国にこのような特殊で強大な軍隊がなければ、どうなっていたか。中国で、軍は戦闘部隊であると同時に、(国内の社会秩序を維持するための)工作部隊でもあるのです。単純に国防を担っているわけではありません」

 ――その特殊な軍の存在が、中国の民主化を困難にしているのではないですか。

 「当然のことです。中国共産党は暴力革命によって政権を握った。暴力による政権奪取の必然の結果は専制政治です。それは民主化をもたらすことはないのです」

 ――文革後、検査を受け、党幹部の職を一時失いました。

 「上司である天津市のトップが失脚したからです。中国社会の特徴はすべてが数珠つなぎにあること。不満だったが仕方がない。私の場合、比較的、軽い方でした」

 「文革後も基本的には文革のやり方が続きました。文革中、多くの幹部が批判され、それに連なる人々がみな失脚しました。文革が終わると、今度は、文革で失脚しなかった幹部が、みな引きずり下ろされました。現在の政治闘争においても、こうした点はいまだに文革の影響を受けています」

    ■     ■

 ――文革は中国社会に何をもたらしたのでしょう。伝統的な文化や価値観が否定され、宗教施設なども壊されました。

 「文革中には過激な破壊活動が起きました。現在、中国が抱える問題はすべて文革がもたらしたものだという見方もあります」

 「(共産党への)信仰、理想、信念といったものが失われました。(豊かで平等な社会をつくるといった)共産主義の理想を信じる気持ちがなくなりました。人々は自信をなくし、残ったのは拝金主義と享楽主義でした」

 ――影響は大きいですね。

 「大きいです。だから、習近平(シーチンピン)国家主席は今、『自信を持て』と強調しているのです。中国人は自分たちの理念や文化に自信を持たなければならない、と」

    ■     ■

 ――一方で、文革時代を懐かしむ人々もいます。

 「貧しかったが、腐敗もなかった。だから、一部の人々は今、貧富の格差がなく、腐敗もなかった時代を懐かしむのです」

 ――文革にもいい面があったというのですか。

 「文革は高度に集中した伝統的計画経済を打ち壊し、その後の改革開放への条件をつくった。もし文革の歴史がなければ、中国はソ連の道をたどっていたでしょう」

 「文革前に、多くの庶民は知りませんでしたが、私は幹部として何が起こっているのかを見ていました。党内には、すでに特権階級が生まれつつあった。幹部たちは夏は避暑地の北戴河に行き、庶民には一生、手が届かない生活をしていたのです。文革がなければ、特権化はさらに拡大し、中国は(民主化を求めた群衆にチャウシェスク大統領が殺された)ルーマニアと同じになっていたでしょう」

 ――改革開放は中国を豊かにしましたが、格差が拡大し、腐敗も横行するようになりました。

 「トウ小平は両手でつかめと言いました。改革開放と政治の二つを、です。しかし、改革開放のカギを握るのは、一部の人が先に豊かになるという先富論です。そうした人々は権力を持ち、権力を私有化する。公権力を金に換える。金持ちが生まれるということは、貧しい人々ができることでもある。それが今の社会なのです」

 「トウ小平の言ったことは元々、矛盾があったのです。トウは貧富の格差が拡大すれば、改革は失敗だとも言いましたが、実際に、社会は金持ちと貧乏人とに両極化してしまいました」

    ■     ■

 ――習体制は「反腐敗」を掲げ、不正の摘発で多くの高官が失脚しています。

 「反腐敗は必要です。法的な手続きに沿って進めるのでは、何もできない。民主プロセスとは違うが、それでもこれしかない。おかげで、役人は安心して生活できなくなっていますけどね」

 ――「反腐敗」が加速して、中国で再び文革が起きることはありませんか。

 「ありえません。文革毛沢東がいたから起きたのです。歴史上の特殊な時期に、最高の威厳を持った領袖(りょうしゅう)がいたから起きた。毛沢東はもういません。第二の毛沢東には誰もなることはできません」

 「もう一つ。時代の変化があります。今の庶民が求めているのは生活の安定と経済成長です。私が革命に参加したころとは違います。あのころは経済のことなんて考えていませんでした」

 ――これから中国政治はどこへ向かうのでしょう。

 「中国は今、左(共産主義)に進むこともできず、かといって右に行くこともできない。右とは米国式の民主政治の道です。このまま進んでいかなければ、生き残ることはできません」

 ――民主化には進めませんか?

 「進めば、中国は四分五裂の道をたどるでしょう。これは怖いことです。米国は望んでいるかもしれないが、中国がソ連のように崩壊したら、経済も大混乱を起こす。かわいそうなのは庶民たちです。金持ちたちはみな国外に逃げるのだろうけど……」

 ――では、共産主義の道は?

 「すでに貴族権益のようなものを持つ階級も生まれているから、左にも行けない。今や中国にどれだけの大金持ちがいると思いますか。彼らから再び財産を奪ったら、大混乱になります。ただただ、今のままでやっていく。これしかほかに道はありません」

     *

 ワンホイ 30年生まれ。66年の文革開始後、天津市の革命委員会弁公庁主任などの要職を歴任。文革終結後に一時職務を停止されるが、82年に復権し、86年に政府シンクタンクの天津社会科学院の院長に就任。98年に名誉院長。

 ■取材を終えて

 中国共産党文革によって、多くの人々の信頼を失った。豊かで平等な社会の実現を訴えた共産主義イデオロギーは色あせ、民主的に選ばれていない党政権が統治を正当化できるものは、経済発展の実績などに限られてしまった。

 党内にも、文革の歴史を直視すべきだとの声は根強い。人民日報は今年5月、「文革は理論と実践における完全な間違いだった」とする論文を掲載した。

 しかし、文革を巡る自由な言論は依然として許されていない。歴史と今とをつなげる議論が、現指導部に都合が悪いからだろう。

 当時の党幹部であり、文革研究を進めた学者でもある王氏のような経歴の人物が、外国メディアに多くを語ることは珍しい。

 10代から地下活動に参加し、党を信じてきた老幹部が、指導部を批判することはなかった。ただ、その言葉ににじむのは、現実への複雑な思いである。いまだに文革の歴史を消化できない党の苦悩は深い。

 (中国総局長=古谷浩一)

 ◆キーワード

 <文化大革命> 経済政策の失敗などを受け、毛沢東が1966年、階級闘争の継続などを呼びかけて発動した政治運動。共産党の官僚化や特権化に対する市民の不満を刺激し、紅衛兵や造反派労働者らが組織され、各地で政府機関などが襲撃された。反革命とされた人々はつるし上げを受け、1千万人に上るとも言われる死者を出した。また、党内の権力闘争が激化し、国家主席を務めた劉少奇ら多くの高官が失脚、迫害された。76年に事実上終結した。

 共産党が81年に出した歴史決議は「文革は指導者が誤って引き起こし、それが反革命集団に利用された」として毛沢東の一定の責任を認めたうえで、「党と国家と各民族人民に大きな災難をもたらした内乱」と位置づけている。
    −−「インタビュー 体制内で見た文革 天津社会科学院名誉院長・王輝さん」、『朝日新聞』2016年10月20日(木)付。

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