日記:「危害原則」で守られた環境のなかで各人の個性を最大限に尊重しなければならないということの意味

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 しかし、『自由論』を少し注意深く読むと、それ以外に、現代人には奇異にも思われかねないメッセージがたくさん含まれていることが分かる。
 その一つは、右の「国家権力」あるいはそれを行使する「権力者」の具体的内容である。われわれは、「権力者」と聞くと、政府の高官や特権官僚、大企業の経営者などをイメージするのが通例だが、「危害原則」のいわゆる「権力者」とは「多数派」、すなわち、ある時は「郵政民営化」に大量の賛成票を投じたかと思えば、ある時は「反原発」デモ行進に参加し、スマートフォンの購入に長蛇の列をなす、数百万人、数千万人の一般庶民、その時々の気分やメディアの動向によって津波のように鳴動する「われわれ」自身である。
 これは、貴族政や独裁政ならぬ現代の民主政では当然のことだ。確かに、大臣を任命し、法律に署名する総理大臣は「権力者」かもしれないが、その総理の念頭を占めているのは次の選挙に勝つこと、つまり「多数派」の票を得ることである。また、市場も、「貨幣による投票」という一種の民主政であることを思えば、巨大企業のCEOの心を悩ませているのも、新製品の売り上げをいかに伸ばすか、「貨幣による投票」においていかに「多数票」を獲得するかということなのである。われわれ庶民が通常イメージする「権力者」は、実は、顔の見えない匿名の「多数派」−−つまり「われわれ」という真の権力者の奴隷なのである。
 もちろん、ジョン・スチュアート・ミルが生きた時代(十九世紀中葉)のイギリスは、ジェントリーなど貴族を頂点とした階級社会だったが、十九世紀前半の議会改革やチャーチスト運動などみ見られるように、当時のイギリスにおいても、民主主義は着々と伸張し、「多数派」の意向を無視しては政治を行えない状況になりつつあった。
 もう一つ気をつけなければならないのは、「危害原則」は、一頃はやった「カラスの勝手でしょ」というフレーズに象徴されるような話、すなわち、他人に害や迷惑を及ぼさない限り、授業中にアンパンをむしゃむしゃ食べたり、援助交際をしたって本人の自由だなどという話とは、似ているようで随分違うということだ。
 人類の個性的で多様な発展を理想とした、ビルヘルム・フォン・フンボルトの『国家活動限界論』の影響を受けて書かれた『自由論』の基本的主張の一つは、「危害原則」で守られた環境のなかで各人の個性を最大限に尊重しなければならないということだが、それは、ミルが、個性の自由な発展こそ人間の品位を高め、ひいては社会全体の道徳的向上を実現すると信じていたからである。
 ミルは、ソクラテス流の「対話術」「弁証法」の必要をも力説している。国家権力の直接的公使によるにせよ、「世論」や「慣習」の圧力にせよ、ミルが「多数派の専制」を批判し排除するのは、「少数派」の意見を尊重するというより、「少数派」と「多数派」の間に、「多数派」のなかに潜在的に含まれている「少数派」相互の間に、社会の至る所に、活発な「弁証法」すなわち討論の輪が広がることを期待してのことである。「弁証法」のテーマには、日常的なマナーやエチケットなども含まれるとしなければならない。
    −−佐藤光「解説 二十一世紀に寛容であること」、ジョン・スチュアート・ミル山岡洋一訳)『自由論』日経BP社、2011年、247−249頁。

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