日記:どうすれば基本的人権のレベルを超えて、文化的相違を分析、評価して、そこから学ぶことができるのだろう?

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 しかし、空白地帯に立っているような気がすることがあっても、共通の土台はたしかに存在する。最も一般的には、人生の基本的価値観や自由、幸福の追求が、万人共通だということは、疑いようがない。実際前講で見たように、わたしたちは選択権と自己決定権を、生物学的に必要としているのだ。つまり、こうした普遍的必要を考えると、一九九三年にウィーンで開催された世界人権会議に参加した世界一七一カ国が確認したように、人には法律による平等の保護、政治プロセスへの参加、教育などの権利を与えられて当然だということになる。だからと言って、世界各地の人々が自由な選択を与えられたときに生み出す社会構造が、西洋型に酷似したものになる、またはそうなるべきとは限らない。自由な選択といっても、選択を行う方法はさまざまだからだ。主体的に決定する場合もあれば、他国のやり方を採り入れ、それによりよく適応するために、自らの環境やあり方を変えたり、すべてを国民の自主性にまかせたり、あるいは落伍者を出さないような措置を国が講じるなど、方法はいろいろだ。
 それではどうすれば基本的人権のレベルを超えて、文化的相違を分析、評価して、そこから学ぶことができるのだろう? たしかに寛容は、固定観念をもとに異文化を批判することに比べればましだが、それでも重大な欠点がある。寛容は、対話を促し、批判的な内省を求めるというよりは、むしろ避難を促すことが多いのだ。「勝手にしてくれ、俺も勝手にするから、互いに干渉し合うのはやめよう」。たとえ文化の棲み分けが可能だとしても、やむを得ず交流が必要になった場合に、価値観に基づく対立はエスカレートしがちだ。現実世界でも仮想世界でも、わたしたちの空間がかつてないほど交差している今、ドアを閉めて違いに目をつぶるわけにはいかない。こうした交差点を戦場にするか、出会いの場にするか、それはわたしたち次第なのだ。
 わたしには、寛容の先にある世界に到達するための三段階プランを、いや三〇段階プランさえ、示すことはできない。でもわたしたちは、もう自分の物語だけに頼って生きられないこと、ほかの物語が存在しないふりができないことを知っている。ほかの物語は、ほかの言語で語られることが多い。そのため、文字通りではないにせよ、比喩的な意味での、多言語使用に努めなければならない。
 これをわかりやすく説明するために、わたしの人生のささやかな経験を語らせてほしい。わたしは目が見えないが、目が見える人の言葉を多用して、この視覚主導の世界でコミュニケーションを図ろうとしている。「見なす」「見守る」「視線を向ける」等々。家族や友人、同僚が、わたしのためにいろいろなものを描写してくれるおかげで、目の見える人たちの世界を歩むことができる。この本を書くこともできるし、それによって、自分が一度もこの目で見たことがない世界を、鮮やかに描き出すことができればと願っている。わたしはこの世界の少数派だから、やむを得ず大勢に併せるしかないのではと思われるかもしれないが、それは違う。わたしは「視覚言語」に通じているおかけで、穏やかで豊かな生活を送ることができるのだ。この世界の支配的言語を使うことで、目の見える人たちの経験に触れられるからこそ、自分の経験をもうまく伝えることができる。この方法を今すぐに拡大適用して、他文化に精通する方法を編み出すことはできないが、まずは選択の語りの違いを知ることが大切だ。さしあたってはまず、見知らぬ土地と見知らぬ言語に、足を踏み入れてみようではないか。
シーナ・アイエンガー(櫻井祐子訳)『選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義』文藝春秋、2010年、104−106頁。

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