覚え書:「戦後の原点 民主主義の力 公害対策、市民が動いた 環境経済学者・宮本憲一さん」、『朝日新聞』2016年12月4日(日)付。

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戦後の原点 民主主義の力 公害対策、市民が動いた 環境経済学者・宮本憲一さん
2016年12月4日
戦後民主主義と公害<グラフィック・大屋信徹>

 戦後日本を支えたのは豊かさへの渇望です。経済成長の結果、公害が深刻な社会問題になりました。しかし、市民や自治体が立ち上がり、産業最優先の政策が転換されます。批判の自由も戦後社会の柱でした。ある環境経済学者の歩みを通して、戦後民主主義を考えます。

 1945年8月24日、海軍兵学校防府分校(山口)にいた宮本憲一は、敗戦の混乱のなか、石川県の親類のもとへ貨車で向かう途中、広島市を通った。荒廃した風景が目前に広がった。原爆投下から18日後のことだ。

 「あったはずの都市が無くなっていた。戦争とはこういうものかと実感しました。人間の生活環境に対する残酷な仕打ち。戦争は最大の環境破壊でした」

 15歳だった宮本は、まもなく戦後社会の嵐にもまれる。日本を占領した米国は陸海軍を解体し、日本の「民主化」を始めた。国民主権基本的人権、平和主義を柱とする日本国憲法も翌46年に公布された。

 「これからは国家に奉公する以外の生き方を選べる社会になった」と宮本は思った。学問の道へ進み、経済学者となった。

 ■患者が「殺して」

 戦後復興を果たした日本が、高度成長路線を進めてきた61年。公共政策や地域経済を専攻していた宮本は労働団体が開いたある集会で、ショッキングな報告を聞いた。三重県四日市市ぜんそく患者が増えていると自治体職員が言うのだ。

 さっそく現地を訪ねた。病院にはぜんそく患者があふれ、発作の苦しさで畳をかきむしる人、「殺してくれ」と言う人もいた。原因はコンビナートから出る亜硫酸ガスだった。

 重化学工業は政府の経済成長政策の柱だった。なかでも四日市石油化学コンビナートの先進地として注目されていた。

 全国の状況を調べた。都市化と工業化を背景とする新しい環境破壊が現れていることが分かった。どうすれば防止できるのか。欧米の資料を読み込んだが解決の道は見えない。当時、日本こそが「公害の先進国」だったからだ。絶望的な気分に襲われかけたとき静岡県の三島・沼津地域から「四日市の悲劇を繰り返すな」との声が上がった。

 三島・沼津地域は巨大な港湾があり、用水も豊富で、石油関連企業に好条件の土地だった。四日市を上回るコンビナートを同地域に新設する計画を国と県が進め始めると、住民が反対に立ち上がった。日本の反公害運動の転換点となる「石油コンビナート反対運動」である。

 地元にある国立の研究機関や工業高校の科学者たちが大気や水を調査し、公害の可能性があるとの結果をまとめた。開発反対のデモや集会、勉強会が繰り返され、地域の銀行の支店長が反対プラカードを掲げる光景を宮本は見た。地元紙などの報道機関も反対運動を支えていた。

 「地域のあり方は自分たちで決めるという地方自治が実践されていた」

 64年、三島・沼津両市がコンビナート受け入れ反対を表明。建設計画は阻止された。厚生省(当時)で初代の公害課長を務め、公害対策に尽力したことで知られた橋本道夫(故人)は回想録に「強い衝撃を受けた」と書いた。住民の運動と事前調査が「地方自治の本旨」にかなう形で結実した、と評した。

 70年代にかけて大都市を中心に誕生した「革新自治体」も大きな役割を果たした。大気汚染によるスモッグが深刻だった東京都で、「東京に青空を」を掲げた美濃部亮吉が67年に知事に当選。国より厳しい基準の公害防止条例を作った。

 70年、政府は公害対策基本法を改正し、環境重視の姿勢を示した。翌年、環境庁もできた。

 ドイツの環境政治学者ワイトナーらは後にこう評したという。「ドイツでは環境政策は政党などが上から作ったが、日本では住民たちが下から作った」

 日本は「公害対策の先進国」という評価を手にするまでになっていた。「戦後民主主義の力だ」と宮本は総括する。政官財の複合体が被害を隠蔽(いんぺい)してでも経済成長を追求しようとしたとき、地方自治、言論と報道の自由基本的人権を生かして各地で市民が動いた。

 ■原発事故は公害

 公害との闘いは未完である。2011年3月に東京電力福島第一原発の事故が発生した。

 「環境汚染のせいで多くの住民が強制疎開させられ、ふるさとを失った。明治期の足尾銅山鉱毒事件以来のことです」

 宮本によれば、公害とは、企業や政府が環境保全への十分な用意をしなかった結果、生活環境が侵害され、健康障害や生活困難が起きる社会的災害である。福島の事故は公害以外のなにものでもない。

 「福島の事故を戦後最大の公害ととらえ、環境民主主義を前進させること。それは現代の私たちの課題なのです」

 (編集委員塩倉裕

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 みやもと・けんいち 大阪市立大学名誉教授。1930年、台湾生まれ。60年代前半、雑誌論文「しのびよる公害」や共著書「恐るべき公害」で公害の深刻さを世に伝えた。各地で被害状況を調べ、予防や救済の理論構築を進めた。集大成の著書「戦後日本公害史論」で今年の日本学士院賞に。

 ■国民の政治参加、民主主義に血肉

 戦後民主主義には、日本国憲法の原案が占領軍から示されたことで「上から与えられたもの」との批判もある。しかし、国民が生活上の問題に取り組み、権利を主張し、政治に参加することで、民主主義は日本社会の血肉となっていった。

 憲法施行7年後の1954年、太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で日本のマグロ漁船が被曝(ひばく)し、死者が出た。「第五福竜丸事件」だ。汚染された魚が食卓に上ることを不安に思う東京都杉並区の主婦が始めた原水爆反対の署名運動が、世界的な反核のうねりへ広がっていった。

 異議申し立ては、各地のダムや原発の建設計画にも及んだ。住民の反対運動が企業寄りの行政に転換を迫り、白紙撤回につながったこともある。自分たちのくらしの形を自分たちでつくる「主権在民」の意識が芽生えた時期でもあった。

 1960年代以降の公害の深刻化に市民や地方自治体が厳しい視線を向けたのも、主権者意識の高まりがあったからだ。

 日本経済の抱える問題を長年論じてきた経済学者、伊東光晴(89)は「戦後、自由や平等を求めて行動する国民の精神が、民主的な制度を中身のあるものにしていった」と話す。

 伊東の民主主義の定義は民衆が権力を持つこと。近代に入り、基本的人権の尊重や言論の自由などにより豊かになった。「ただし、一度つくった制度も、えてして形骸化する」

 バブル経済の崩壊を経て成長が当たり前ではない時代が続く。伊東はいま、増え続ける非正規雇用などの労働環境の変化や格差、貧困に心を寄せる。「民主主義に完成はない。その精神は、現実のゆがみを改めようと行動する中にしか宿らない」

 戦後日本社会の発展は、経済成長と公害という光と影を生んだ。その相克は今も続いている。(河野通高)

 ◆文中は敬称略。次回の「戦後の原点」は1月、「会社はだれのものか」を特集する予定です。

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