覚え書:「漱石 没後100年 文豪の生涯、彩る出会い」、『朝日新聞』2016年12月11日(日)付。

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漱石 没後100年 文豪の生涯、彩る出会い
2016年12月11日

写真・図版
修善寺大患の翌年(1911)4月、早稲田の漱石自宅。後列右から3人目が漱石。前列左から次女恒子、鏡子、長男純一、四女愛子、長女筆子、三女栄子、小宮豊隆。右の円内が森田草平、左が鈴木三重吉漱石の孫の半藤末利子氏蔵

 夏目漱石(1867〜1916)は9日、没後100年の命日を迎えた。父母、養父母、妻、正岡子規高浜虚子、門下生――。出会った人々から、49年の生涯をたどる(特記ない写真は「漱石写真帖」から)。

 ■両親・養父母 生後すぐ養子「がらくたと、ざるの中に入れられた」

 1867(慶応3)年、高齢の両親の五男として生まれた夏目金之助は、生後まもなく、古道具屋(八百屋という説も)に養子に出される。漱石は晩年、随筆「硝子戸(がらすど)の中」でこう語る。「我楽多(がらくた)と一所に、小さい笊(ざる)の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝(さら)されていた」。「じきまたある家へ養子に遣(や)られた。……養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻る」

 兄2人が亡くなった後、漱石は夏目家に復籍する。小説「道草」は、漱石の分身とも言える洋行帰りで教師をしている健三が主人公だ。離婚している養父母が別々に健三を訪ねてくる。もちろん小説ではあるが、養父が金の無心をする「義務として承知してもらわなくっちゃ困るといった風の横着さ」という表現や登場する証文を読むと、現存する実父から養父への養育料分割払いの証文類との関係を考えざるを得ない。

 ■妻・鏡子 「ひたひたと愛していた」

 悪妻と言われた妻鏡子だが、「その自然な正直なところを愛して」、おおざっぱな家事や朝寝の癖を「大目に見ることができていたのではないか」と漱石の弟子・小宮豊隆は書く。結婚前、「小児の時分より『ドメスチック ハッピネス』などいう言は度外……今更ほしくも無之(これなく)」(1895年12月18日、子規宛て書簡)と家庭の幸福を無縁と考えていた漱石だが、小宮は「ひたひたと鏡子を愛していた」(小宮「夏目漱石」)とみる。しかし英国から帰国した漱石は妻子に暴力を振るうこともあった。

 「道草」では、健三が金を妻に放り出す場面がある。妻は、夫が優しい言葉を添えてくれたらうれしい顔ができたのにと思い、夫は、うれしそうに受け取ってくれたら優しい言葉がかけられたのに、と思う。気持ちのすれ違いが双方の立場で描かれる。十川信介氏の最新の評伝「夏目漱石」では「妻の鏡子と対等に接しようとする」分岐点は1910年、胃潰瘍(いかいよう)で危篤に陥った修善寺大患であったという。鏡子は吐血する漱石を抱え、「胸から下一面に紅(くれない)に染ま」(「漱石の思い出」)るという死のふちをともに経験した。

 ■正岡子規 「小説家たらしめた原動力」

 漱石と子規の出会いは「殆(ほと)んど運命的」「漱石をして小説家たらしめるに至った原動力が子規であった」と言う(小宮「夏目漱石」)。共通の趣味・寄席が取り持つ縁だ。

 漱石が英国留学前に「ホトトギス」に寄稿した「英国の文人と新聞雑誌」(1899年4月)。初期の新聞は政治的なものだったが、「段々発達して有(あら)ゆる種類の文学が新聞雑誌の厄介になると云(い)う時代に……文学者と新聞雑誌との関係が漸(ようや)く密切に成って来て現今では文学者で新聞か雑誌に関係を持たないものはない」と、英国で鋭い批評で売り上げを伸ばした新聞の例などを引いた。これは子規が依頼したらしい。漱石朝日新聞社に入社したのは、早くから文学と新聞雑誌の未来を見通していたからかもしれない。

 子規は1892年、新聞「日本」に、俳句で時事を切り取る時評を連載する。「新聞という新しいメディアの特性と密着した俳句ジャーナリズムを、子規は開発した」と「子規と漱石」で小森陽一・東大教授は言う。

 ■高浜虚子 「猫」書くように促した

 高浜虚子は中学生のとき、松山の子規宅で漱石に初めて出会う。「漱石氏は洋服の膝(ひざ)を正しく折って静座して、松山鮓(ずし)の皿を取上(とりあ)げて一粒もこぼさぬように行儀正しくそれを食べるのであった」

 英国からの帰国後、漱石がまじめに教師として勤めながらうつうつとしていた頃、虚子が鏡子に言われた。「この頃機嫌が悪くって困るのです。……どこかに引張(ひっぱ)り出してくれませんか」。子規の死後、「ホトトギス」を受け継いでいた虚子は、漱石連句や俳体詩には興味を示したため、文章を作るよう勧めていた。1904年12月の文章会「山会」の行きがけに立ち寄るから書くようにと促した。漱石は「愉快そうな顔をして私を迎えて、一つ出来たからすぐここで読んで見てくれ」。朗読したところ、漱石は聞きながら「しばしば噴き出して笑ったりなどした」(「漱石氏と私」)。「吾輩は猫である」の、そして作家漱石の誕生だ。

 ■門下生 「先生は単に弟子どもの所有」

 「坊っちゃん」「草枕」などを発表し、多忙になった漱石は1906年10月、面会を毎週木曜の午後3時以降と決めた。「木曜会」として門下生たちがつどい、創作披露の場ともなった。

 漱石の死後、かわいがられたと同時に、私生活も含めて「いちばん深く先生に迷惑をかけた」と自称する作家の森田草平にとって、漱石との別れはもう一つあった。「先生は奥さんの先生でもなければ、天下の漱石でもなかった。単に弟子どもの漱石であった、弟子どもの所有であった」漱石が大患以後、急に「弟子どもの手を離れて、天下の漱石となられた。社会の所有に帰(き)した、同時にまた奥さんの手にも帰っていかれた」(森田「夏目漱石」)。

 ■「辞世を考えたよ」――12月9日、49歳で永眠

 「明暗」188回を書き終えたのが1916年11月21日、その後、知り合いの結婚披露宴に出席し、漱石は、胃に悪いと鏡子に止められていた好物の南京豆を食す。22日、机にうつぶせ、苦しんでいる漱石が発見され、鏡子に「こうやって苦しんでいながら辞世を考えたよ」という。12月2日、便器で力んだ際、内出血を起こし、意識不明に。8日、主治医の真鍋嘉一郎が「とてもだめ」と判断する。9日午後6時45分永眠。真鍋が「お気の毒でございます」と鏡子に頭を下げた。突然画家の津田青楓(せいふう)が大声で泣き出した。森田草平の提案で、デスマスクを取る。はがすとき、ひげが引っ張られて痛々しかったという。

 今年5月、遺族の元で保管されていた葬儀・相続関係資料が紹介された。そこにはこの間の薬の領収書、真鍋ら医師への謝礼、葬儀費用などの明細が含まれていた。長男純一への相続開始書類には被相続者として「東京朝日新聞社記者 夏目金之助」と書かれていた。

 (岡恵里)
    −−「漱石 没後100年 文豪の生涯、彩る出会い」、『朝日新聞』2016年12月11日(日)付。

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