日記:群れをなしてニューヨーカーたちの眼の前にあらわれて、しかし沈黙している「あいまいな日本の私」たちは、『ティファニーで朝食を』に描かれた日本人の滑稽さをむしろ気楽に感じさせるほど、グロテスクな印象をあたえはじめているのではないでしょうか?

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 夏目漱石から三島由紀夫安部公房まで、日本の近代、現代文学は、西欧、アメリカから徹底して影響をこうむってきました。しかも西欧、アメリカに、正面きって向かいあう仕方で、われわれの作家が日本と日本人を語ることはなかった、と私は考えざるをえないのです。確かに日本の近代、現代作家の優れた作品は英訳され仏訳されたけれども、それは日本から出発して日本にいたる、閉じた回路のなかでかれらを、西欧、アメリカが外側から光をあてるようにして発見してくれたということだった。それは紫式部芭蕉が、西欧、アメリカによって発見されたのと異ならなかったのではないか、と私は考えざるをえないのです。

 いや、文学の受容はそのようなかたちにおいてこそ健全なのだ、という声はありうるでしょう。しかし現在の国際関係において、日本人の自己表現である文学にもそれは妥当な批評でしょうか? 私はそうではないと思います。なぜかといえば、西欧、アメリカにおける日本経済的な実在感と、日本人が西欧、アメリカに向かって自己を語る言葉との重みとが、いまやあまりにもアンバランスであるからです。漱石の時代、日本人は西欧、アメリカに対してほとんど沈黙していました。そして当時の日本経済は、漱石の主人公が嘆くとおり、まったく無力だったのでした。今日、このニューヨークでも日本経済は大声で存在を主張しています。ところが人間の全体性としての日本人は、透明人間のように、あなた方には見えないままなのではないでしょうか? 群れをなしてニューヨーカーたちの眼の前にあらわれて、しかし沈黙している「あいまいな日本の私」たちは、『ティファニーで朝食を』に描かれた日本人の滑稽さをむしろ気楽に感じさせるほど、グロテスクな印象をあたえはじめているのではないでしょうか?
 こういう具体的で根本的な危機において、日本文学は近代化以後持ちつづけた性格をつくりかえねばならぬと思います。日本とはどういう国か、日本人とはどういう人間かについて、西欧、アメリカに向かって、またアジアに向けて語りかける、その積極的な意志を日本文学はかためねばなりません。そしてそのように意志をかためれば、いま日本人が世界に向かって語らねばならないこと、語るべきことは実に数多くあるのです。
    −−大江健三郎「回路を閉じた日本人でなく」、『あいまいな日本の私』岩波新書、1995年、201−202頁。

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