日記:大江健三郎と南原繁
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子どもじみた態度と倫理的想像力
森の奥の新制中学からひとり、バスと汽車の切符をもらって、やはり幾つもの県内の新制中学から集まった生徒たちの、特設クラスに行ったことがあります。アメリカ人の男女の見学者が数人囲むなか、日本人の教師から英語の授業を受けました。
どんなテクストだったかも覚えていないのに、くっきりした二つの記憶があります。ひとつは、
−−childlikeといわれても笑っておればいいが、childishといわれたら、侮辱だと思え! と教えられて、自分がアメリカ人の社会に入って行くことになったら、絶対に、childishとはいわせまい、と心にきめたこと。
もうひとつは、その男の教師が、正しい発音のできない生徒(たとえば、私)を道具に使って、見学者らを笑わせるのが、それこそchildishじゃないか、と反発したことです。
半世紀も前のことを思い出したのは、一種特別な表情のブッシュ大統領の脇でギターの弾き語りのマネをする小泉首相の写真を見て、日本の子供は(またアメリカの子供も)どう感じるだろう、と思ったからです。
中国や韓国の子供たちがあれを見たとは思いませんが、今年(二〇〇六年の八月十五日、今度は厳粛な顔で靖国神社に向かう(かも知れない)小泉首相の映像を見ることも思いました。
じつのところ私は、小泉首相の汽車たちへの定言命法式の答え、議会でのやりとりと薄ら笑いから、その人格をそういうものだと総合できないままで来ました。ヨーロッパの歴史を回想録風に語る古い本に、危機にさらされている小国でありながら奇妙な人物が権力の座にあってグロテスクな振る舞いをする……黒い笑い声が聞こえてくる……民衆に悲惨が残る、という種類の記述がよくありますが、そういえば東アジアの現在の危機にも、役者がそろいすぎているようなのが気になります。
しかし私には、見果てぬ夢として、子供たちのための「倫理的想像力」のモデルとなる指導者、というイメージがあります。言葉自体はほかで見つけたはずですが、最近きっかけがあって、南原繁という政治学者・教育家の本を読むうち、自分の若いころの文字でmoral imaginationと書き込んであるのを発見しました。南原繁は、むしろ敬愛してきた幾人もの学者たちの、真の師匠としての、という私にとっての年代感覚の人ですが……
この八月十五日、家にこもって憂鬱なことが起こるのを待つより、と思い立って、東大構内での集会に出してもらうことにしたのです。南原繁東京大学総長は、敗戦翌年の紀元節(いまは建国記念の日)、戦場から帰った学生らをふくむ若い人たちに安田講堂で語りかけました。この記念すべき講演をめぐり、それぞれに話す会です。その日のことを南原自身が振り返った本に、私はさきの書き込みをしていたのです。
南原は、国をあげての戦争に責任のない者はない、と記しています。《……ことに国を代表した天皇には、おのずから道徳的・精神的な責任がある。(中略)これは現在なお、問題として残されているところではないですか。ことに幾百万の兵士が天皇の名において死んでいるのです。これは、やはり一つの問題です。それにもう一つ、戦後の日本に政治的責任観念が非常にうすくなった。この点も、やはり考えられていい。道義の根源という問題が依然として今日残っているのではないですか。》(『聞き書 南原繁回想録』東京大学シュパン会)
ここにある道義的、道義という語句を紀元節講演にさかのぼって読みとれば、キリスト教の(それもルターの改革以後の)言葉だとわかります。しかしこの本を読んだ時、自分は信仰に入ることができない、と考えていた私は困りました。そこで道徳的、道義を英語のmoralとして「倫理的想像力(モーラル・イマジネーション)」と解すれば、自分にも取り込めるんだが、と書き込みをしたのでしょう。
さて紀元節の講演で、敗戦の破局と崩壊は、民族の神話伝統を歪めて用い、民族の優越性を言い立て、アジアから世界まで支配すべき運命だと信じた指導層の、独断と妄想による、と南原はのべます。どうしてこうなったのか? それは、強い民族意識こそあったけれど、おのおのに《一個独立の人間としての人間意識の確立と人間性の発展がなかった》からだ。しかし年頭、天皇は人間宣言をされた。《それは同時に、わが国文化とわが国民の新たな「世界性」への解放》である。
これに普遍的宗教をあわせて(という考えには私は同調しませんが)日本・日本人の復興を構想しよう、と南原は結論し学生たちは興奮しました。この再出発点のきまじめさ、自立への強い意志を、私らはいつ失ったか?
南原講演と学生たちの積極的な受けとめにあるのは、危機のなかでの愛国心の顕在化です。しかも「倫理的想像力」と重なっている。そこには教育の現場に伝えたいものがみちている、と私は集会で話そうと思います。
−−大江健三郎『定義集』朝日新聞出版、2012年、21−24頁。
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