覚え書:「耕論 国連と日本の60年 吉川元偉さん、ラインハルト・ドリフテさん」、『朝日新聞』2017年03月16日(木)付。

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耕論 国連と日本の60年 吉川元偉さん、ラインハルト・ドリフテさん
2017年3月16日

国連と日本<グラフィック・永井芳>

 敗戦、そして戦争犯罪への国際法廷の裁きを経て、日本は1956年12月に国連加盟を認められた。国際社会への復帰を象徴する出来事だった。それから60年余、日本人と国連の関係はどのように変化してきたか。同じ敗戦国のドイツはどうだったか。両国の専門家に聞いた。

 

 ■座標軸を定め、常任理事国に 吉川元偉さん(前国連大使

 60年余り前に日本の国連加盟が認められた時、当時の重光葵(まもる)外相が国連総会で行った演説文を、後輩の外交官たちに手渡すようにしていました。日本の国連外交の初心が込められているからです。

 演説は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持」する決意が国民の信条であり、憲法前文に掲げていると伝えています。日本の政治、経済、文化は過去1世紀の欧米、アジア両文明の融合の産物だとし、日本が「東西のかけ橋となり得る」と訴えました。

 会場でそれを直接聞いたのが後に国連事務次長になった当時留学中の明石康さんです。明石さんの本でこの演説のことを知り、ずっと大事にしてきました。

 戦前の国際連盟で、日本は1920年の創設以来、常任理事国でした。それなのに、たった13年後に脱退を表明。自ら孤立を選び、戦争による破滅に突き進んでいった。その裏返しで、国連への強い熱意、あこがれは国民の中に確かにあったと思います。

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 ただし、日本の多国間外交は、いまだ「勉強中」の段階かもしれません。鎖国の時代を経て、江戸時代末期に近代的な外交と直面しました。多国間外交にデビューしたのは大正時代、1919年のパリ講和会議でした。第1次大戦後の世界秩序がつくられましたが、戦勝国とはいえ準備も経験も不十分で、「サイレント・パートナー」と揶揄(やゆ)されました。

 この反省から外務省革新運動を始め、海外研修などの今に続く制度の骨格をつくったのが、講和会議に参加していた若手外交官の重光らだったのです。

 とはいえ、多国間外交の人材はあまり育ってはいません。日本では二国間外交に関与したいと考える人が多く、それが外務省の「エリートコース」ということになっています。日米、日中などの二国間外交に比べ、多国間は苦労する割には成果を出すのが難しいからでしょう。

 外交は言葉による説得の術ですが、日本で数カ国語を自在に使える外交官もまだ少ない。私はスペイン語、フランス語も話します。地方の高校生時代、ラジオ英会話を通学電車の中で声を出して暗記し、「英語で考える」ことを学んだのが基本でした。いまはもっと簡単に習得できるはずです。

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 国連安保理常任理事国になることは外務省の悲願だという人がいますが、私はむしろ日本の責務だと思っています。

 大国のステータス、重要な情報が入ってくるといったメリットを強調する人がいますが、昨年まで国連大使として日本の実務者代表を担った立場としては、それだけではないと感じる。まして、拒否権などは個人的には二次的なことだと思っています。

 常任理事国となり、多国間外交の仕組みで責任ある立場に立つということは、世界のあらゆる問題で判断を求められ、時には当事者に嫌われる役割です。自らの座標軸を定めなければなりません。

 私は現在の常任理事国と同じステータスを求めるのではなく、日本が常に安保理にいられることを第一に考えるべきだと思います。70年以上続く国際政治の秩序を、戦争をするのでなく、秩序の中にいながら作りかえていこうという旗を振り続けるのです。

 国連は無能だというのも、国連が万能と考えるのも間違いです。実像を正しく理解して、どう協力し、利用するかを考えたい。分担金と平和維持活動(PKO)の話にすぐになりますが、日本はさまざまな貢献ができる。南スーダンでも、困難な環境下で5年間、活動した自衛隊員らに感謝しつつ、飢餓対策など同国を支援する機運が冷めないよう願います。新規のPKO派遣先も探してほしい。平和と安全、開発、人権という三つの目標でバランスの取れた行動をすることが大切だと思います。

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 よしかわもとひで 51年生まれ。高校時代に米国に留学。74年に外務省入省し、国連政策課長やスペイン大使などを歴任。4月から国際基督教大学(ICU)特別招聘(しょうへい)教授。

 

 ■憲法日米安保の矛盾、隠す ラインハルト・ドリフテさん(英ニューカッスル大学名誉教授)

 国際連合に対し、日本には特有の幻想があるようにみえます。

 敗戦から再出発した時、当時の吉田茂首相らが、「将来的に国連が独自の軍を常備して日本を守るのだから、戦争を放棄し、戦力を保持しなくても大丈夫」と国民に思い込ませ、「素朴な平和主義」を助長した影響が大きいのではないでしょうか。

 国連軍の創設は、現在も実現していません。しかし、主権回復後も米軍に基地を提供し続けなければならないという現実を覆い隠すような「シルクハット」として、つまり「日本国憲法の前文と9条」と「日米安保条約」の矛盾を埋めるため、国連は利用されてきました。

 国連加盟後、日本政府は「国連中心主義」を外交政策の柱の一つに掲げました。このスローガンが憲法と安保条約の整合性を保つだけでなく、日本の大衆の平和主義志向を助長しました。しかし、ほとんどの政権は実際に「国連中心主義」を真剣に目指していたとは思えません。

 例外は池田勇人政権の初期でしょう。ニューヨークの国連代表部を東京の外務省本省並みに増強し、国連担当大臣を置くことを検討し、民間人で国際文化会館専務理事の松本重治氏に国連大使就任を働きかけた。興味深い試みでしたが、実現はしませんでした。

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 一方、外務省が意欲を持ち続けているのが、国連安全保障理事会常任理事国になることです。戦前、国際連盟常任理事国だった日本が、国際連合でもそのような地位を占めたいと願うのは、敗戦で失ったものを取り戻そうとする一環でもあるのでしょう。

 国連憲章を改正し、日本が常任理事国になるのは、率直に言って絶望的だと思います。日本の官僚だってそうとわかっていても旗を降ろさないのは、「一貫性」が重要だからでしょうか。

 一緒に常任理事国入りを目指してきた「G4」のドイツ、インド、ブラジルとは、まさに「同床異夢」です。それぞれが常任理事国になりたい目的も、事情もバラバラです。インドやブラジルはこれから発展するでしょうが、日本や私の母国であるドイツはすでに発展した国です。

 ドイツは日本同様、第2次大戦の敗戦国ですが、国連での加盟は、日本より17年も後れをとりました。東西両ドイツの同時加盟でした。ようやく加盟が認められた後も、冷戦構造の下で東西ドイツは対立を続けました。ドイツにとって、常任理事国入りが外交課題になったのは1990年にドイツ統一が実現してからで、この問題で日本がどう動くかを注視していたのが現実です。

 現在、ドイツ外交は欧州連合(EU)による比重が増していますし、ドイツが常任理事国に加われば、すでに国連内で偏重されていると批判がある欧州の意見がさらに大きくなるとして反対されるのも確実です。常任理事国入りは日本よりもさらに絶望的です。

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 米国でトランプ政権が生まれ、その政策の先行きが不透明になっているからこそ、日本には周辺国との歴史的和解がより必要になっています。しかしそれができていない一方で、国連での行動を見ていても、米国の支持を得ることに意を用いすぎている。米国はもちろん重要な国ですが、191あるほかの加盟国や周辺の国々にも関心を払った方がいいと思います。

 国連の仕事で圧倒的に大きな領域を占めるのは、開発や人権問題です。日独のような先進工業国にとって、こうした問題に取り組み安定した世界を作り出すことは、未来の市場の創出にもつながります。貧困問題が放置され、発展途上国が混乱していれば、経済的な恩恵は受けられません。地味ながら、こうした分野でこそ世界から役割を期待されているということを忘れるべきではないでしょう。

 (聞き手はいずれも池田伸壹)

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 Reinhard Drifte 51年、旧西ドイツ生まれ。戦後日本外交、東アジアの国際政治を専門とし、アジアや欧州の各地で研究を続ける。邦訳書に「国連安保理と日本」など。
    −−「耕論 国連と日本の60年 吉川元偉さん、ラインハルト・ドリフテさん」、『朝日新聞』2017年03月16日(木)付。

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