日記:「立憲的独裁」、「専門家支配」に対して「立憲デモクラシー」がいかに対抗するのかが問われている

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8 政党政治の終わりと「立憲的独裁」

デモクラシーなき立憲主義
 日本においては、大正の終わりから政党政治が本格的に作動しはじめたものの、満州事変や五・一五事件に象徴される一九三〇年代初頭の相次ぐ内外からの衝撃によって、政党政治はその権威を揺るがされています。政治学者の中にも「デモクラシーの危機」が叫ばれるようになります。そして「デモクラシー」の代替イデオロギーとして一種の「立憲主義」が浮上していくのです。
 その場合の「立憲主義」とは「デモクラシー」から分離したものです。要するに「立憲デモクラシー」ではなかった。そして「デモクラシー」なき「立憲主義」として「立憲的独裁」という概念が登場します。その主唱者は、当時の先端的な政治学者であり、行政学者であった蝋山政道でした。蝋山は最後の政党内閣となった犬養毅政友会内閣の下で、五・一五事件の四カ月位前の時点で、その前途に悲観的見通しを立て、「立憲主義」の枠組を前提としながら、議会に代わって「権威をもって決定しうる組織」(専門家支配の組織)を作り出すための概念として「立憲的独裁」を提唱したのです(蝋山政道「憲政常道と立憲的独裁」『日本政治動向論』東京高陽書院、一九三三年所収、および「我国に於ける立憲的独裁への動向」同上所収)。
 蝋山は「立憲的独裁」を当時の欧米先進国間の共通の現象として見ました。ドイツにおける大統領の緊急令(ワイマール憲法第四八条に基づくNotverordnung)による統治、一九三一年に出現した英国における「挙国一致内閣」、さらにニューディール政策を進める米国の政治も「立憲的独裁」の事例として意味づけたのです。米国の場合、蝋山は「憲法上許されてゐる極度の独裁権」が与えられていると見ました(拙著『学問は現実にいかに関わるか』東京大学出版会、二〇一三年、一一九−一二〇頁)。
 五・一五事件を経て成立した「政党・官僚の協力内閣」である斎藤實内閣に対して、蝋山が「唯一の道」として提言したのは、「議会に代わるべき権威ある少数の勅令委員会」、要するに天皇によって正当性を付与された行政権に直結する専門家組織による「立憲的独裁」でした。「立憲的な独裁にまで進むに非ざれば、やがて……一縷残存してゐる立憲主義そのものをも破棄せしむる危機を招来するやも知れない」と書いております。「立憲的独裁」という概念には、明治憲法下の「立憲主義」に対するそれなりの切迫した危機感があったことも否定できません。しかし、その場合の「立憲主義」とは、「近代的な意味における立憲主義」ではなく、「国民協同体」の政治組織である「国民組織」の政治原理です。「日本の国体を中心とする国民の政治的形成の内在的原理の上に立てられるべきもの」という特殊な意味を付与されたものです。議会制から離脱し、それを否定した「立憲主義」です。「立憲的独裁」の概念形成に伴って、「立憲主義」概念自体が変質していったのです。
 私は、今後の日本の権力形態は、かつて一九三〇年代に蝋山政道が提唱した「立憲的独裁」の傾向、実質的には「専門家支配」の傾向を強めていくのではないかと考えています。これに対して「立憲デモクラシー」がいかに対抗するのかが問われています。
    −−三谷太一郎『日本の近代とは何であったか 問題史的考察』岩波新書、2017年、78−80頁。

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