覚え書:「日中戦争の発火点 盧溝橋事件80年」、『朝日新聞』2017年06月25日(日)付。

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日中戦争の発火点 盧溝橋事件80年
2017年6月25日

入江昭・米ハーバード大名誉教授
 日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件=キーワード=から、来月7日で80年になる。近代以前は千数百年にわたって、おおむね平和的関係にあったアジアの隣国同士が、なぜ全面対決に至ったのか。破局は防げなかったのか。両国の指導者たちは何を考えていたのか。現在の日中関係にも大きな影を落としている戦争を振り返る。(文中は敬称略)

 ■崩れ去った不拡大方針

 日曜日の朝だった。

 外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)は東京駅で外相、広田弘毅(こうき)の到着を待った。

 盧溝橋での日中両軍の衝突から5日目、1937年7月11日のことだ。中国の指導者、蒋介石が中央軍に対し、北京付近に向け進撃命令を出した、という情報が入っていた。

 臨時閣議に出るため、静養先の神奈川県藤沢町(現藤沢市)から戻った広田の車に石射が乗り込んだ。

 「(中国への兵力)動員案を食い止めていただきたい、このさい中国側を刺激することは絶対禁物です」

 広田がうなずいた。

 近衛文麿内閣は、事件不拡大、現地解決の方針を確認。一方で満州、朝鮮と日本国内から陸軍部隊を送ることを決めた。武力による威嚇で事態の沈静化を図る狙いだった。

 閣議後、広田は「万一のための準備」だと石射に説明した。石射は「いたく大臣に失望を感じた」(石射著「外交官の一生」)。

 夜8時、現地の日中両軍が停戦協定を締結。国内からの派兵は保留となった。

 近衛内閣は夜9時から首相官邸に新聞、通信社の幹部、政界代表、財界代表をそれぞれ集め、政府方針への支持と協力を求めた。

 「官邸はお祭りのように賑(にぎ)わっていた。政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配なのだ。……軍部に引き摺(ず)られるのが今までの例だ。……野獣に生肉を投じたのだ」(同)

   □  □

 「近衛がみずから(中国の首都)南京にのりこみ、蒋介石とひざづめ談判でかたづけるのが、いちばんいいと思う」

 陸軍参謀本部第1部長、石原莞爾(かんじ)が内閣書記官長(現在の内閣官房長官)の風見章に電話でそう言ってきたのは7月中旬だった。

 関東軍の参謀として石原は、31年の南満州鉄道爆破事件(柳条湖事件)を主導した。しかし、盧溝橋事件では不拡大を強く主張。「満州国」の建設を急ぎ、仮想敵国ソ連との戦争に備える時だ、と考えていた。

 石原の提案に近衛は初め乗り気だった。しかし、蒋介石との間で交渉が成立しても、軍部が従う保証がない、と考え直した。

 陸軍内は「日本の支配地域を広げる好機」「中国は一撃で倒せる」とみる強硬派が力をもっていた。近衛には陸軍を説き伏せる自信も気概も乏しかった。

 風見は広田に中国行きを打診した。

 「サア、そういうことをやってみても、どうかね」

 あとは無言だった(風見著「近衛内閣」)。

 7月25、26日、日中両軍が北京とその近郊で衝突した。近衛内閣は27日、それまで押しとどめてきた国内からの派兵を閣議決定した。28日、日本軍は北京周辺に総攻撃を開始した。

   □  □

 8月9日、海軍陸戦隊の中隊長が上海で中国側に射殺された。11日、7、8隻の日本軍艦が揚子江河口に現れ、増援部隊をおろした。情勢は険悪化した。同盟通信上海支社長の松本重治(しげはる)は「万事休す」、戦争は不可避だと思った(松本著「上海時代」)。

 14日、中国軍が上海の日本軍を爆撃。日本軍が応戦した。15日、日本政府が声明を発表した。

 「南京政府の反省を促す為(ため)今や断乎(だんこ)たる措置をとるの已(や)むなきに至れり」

 武力行使の目的は、邦人保護から「中国を懲らしめる」ことに変わった。

 外務省の石射は日記に書きつけた。

 「独りよがりの声明、日本人以外には誰も尤(もっと)もと云(い)ふものはあるまい」「無名の師(大義なき戦争)だ」

 日本軍は苦戦した。近衛は語った。

 「支那(中国)軍は予想以上に強い。……愛国心なり、抗日の精神なりが強く教育されてゐる」(原田熊雄述「西園寺公と政局」)

 11月上旬、上海の中国軍が撤退を始めた。日本軍は中国軍を追って南京へ向かった。南京を攻略すれば中国は降伏するとみていた。

 現地の動きに押されるように、大本営陸軍部は12月1日、正式に南京攻略命令を発した。(上丸洋一)

 ■新聞の論調、一転 「ただ一撃あるのみ」

 「今からでも時機を逸したとはいへぬ。一刻も早く平和解決に向(むか)ふやう、最後の努力を切望する」

 中国への派兵が閣議決定されたのを受けて、東京朝日新聞(東朝)は社説(1937年7月12日付)で、そう主張した。朝日新聞は交渉による解決に望みをかけた。

 しかし、中国軍機が上海を空爆するに及んで論調は一変する。

 「日本の隠忍はつひに最終の限度に達したのである。今はただ一撃あるのみ」(同年8月16日付社説)

 日本軍は上海から南京へと進撃、報道各社の記者たちがあとを追った。

 その一人、大阪朝日(大朝)社会部の守山義雄は、陥落後の南京で避難民と筆談を交わした。

 「お前たちの兄弟、朋友(ほうゆう)は戦争でたくさん死ななかつたか?」

 「たくさん死んだ。だが生死不定は人間の運命だ」(38年1月5日付大朝)

 南京で何があったか。

 事実をそのまま書くことは検閲で許されなかった。

 同僚記者の回想によると、守山は南京で、こうつぶやいたという。

 「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」

 ■中国、内戦停止し抗日へ

 31年の柳条湖事件以来、度重なる日本の軍事行動で、中国国民の抗日意識は高まった。しかし、中国国内では蒋介石率いる国民党と、毛沢東共産党が熾烈(しれつ)な内戦を続けていた。

 転機は36年12月に来た。共産軍討伐のため陝西省西安に駐屯中だった張学良らが、西安を訪れていた蒋介石を監禁し(西安事件)、内戦停止と挙国一致による抗日を要求、蒋も説得を受け入れた。

 翌37年、盧溝橋事件が起きたのは、歴史の潮流の変わり目であった。

 日本と戦うことになった蒋介石だが、青春時代は日本との接点が多かった。19歳のとき、日本に留学。いったん帰国するが、再び来日して、清朝の留学生のための軍学校・振武学校で3年近く学んだ。卒業後は新潟県の陸軍第13師団砲兵第19連隊に配属されている。日本語を話し、日本人の友人もいた。在日中に孫文の中国同盟会に加わり、清朝を倒す辛亥(しんがい)革命に参加するため、除隊して帰国した。

 最後の訪日は27年秋。犬養毅頭山満ら中国の革命運動を支えてきた友人、田中義一首相や浜口雄幸・立憲民政党総裁ら政治家にも歓迎された。蒋は「日本国民に告げる声明書」を発表し、日本側の理解と支援に感謝した。

 だが、帰国後の28年に起きた済南事件で日本への不信がふくらむ。蒋率いる国民革命軍は華北軍閥を打倒するため北上途中、山東省済南で、在留邦人保護の名目で出兵してきた日本軍と激しく衝突した。

 盧溝橋事件の勃発後、蒋介石の日本批判は厳しい。

 38年11月、近衛内閣が戦争の目的は「東亜新秩序」建設にあると声明を出すと、反論した。「これはつまり『中日合併』であり、中国の日本に対する全般的帰属であり、『日本大陸帝国』の完成でもある」(藤原秀人)

 ■昭和天皇「陸軍けしからん」 「事態憂慮も拡張容認」との見方

 盧溝橋事件から1年たった38年7月、陸相板垣征四郎は宮中に参内していた。満州国の国境不明確地帯で陸軍がソ連軍と衝突、昭和天皇から武力行使の許可を得るためだった。

 だが、天皇は語気強く反論した(「西園寺公と政局」)。

 「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕(ちん)の軍隊としてはあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある」

 恐縮した陸相はただちに御前を退出した、という。

 また、これは敗戦後のことだが、日中戦争開戦前の心境について、「日支関係は正に一触即発の状況であったから私は何とかして、蒋介石と妥協しようと思った」と側近に語っている(「昭和天皇独白録」)。

 だが、陸海軍を統率する「大元帥」の立場から、戦況に敏感に反応し、時には具体的な中国内の戦略拠点の名を挙げて、「陸軍はなんとかならんか」と発言することもあった(「戦史叢書90巻」)。

 また、大戦中の42年12月には、「戦争はやる迄(まで)は慎重に、始めたら徹底してやらねばならぬ、又(また)、行わざるを得ぬと云(い)うことを確信した」とも述べた(「小倉庫次侍従日記」)。

 明治大教授の山田朗は著書「昭和天皇の戦争」で、天皇は事態を憂慮しつつも、大日本帝国の勢力圏、領土の拡張を常に容認してきたことも確かである、と指摘している。

 日本大教授の古川隆久は「昭和天皇は『中国と戦争をすべきではない』という願望、理想を持ってはいたが、その実現はなかなか難しいとも認識していたのではないか」と分析する。(緒方雄大

 ■依然、忘れられた戦争 入江昭・米ハーバード大名誉教授

 真珠湾攻撃という明確な形で始まった米国との戦争と違って、日中戦争は、意識しないうちに始まっていたというのが、庶民の感覚だったのではないか。盧溝橋事件後も宣戦布告はされず、政府は「北支事変」、のちに「支那事変」と呼んでいた。

 中国制覇ができないのは、米国が中国を支持しているためだ、という考えが日本で強くなっていった。米国を敵視し、真珠湾攻撃を通してアメリカの干渉を排除しようとした。逆効果で、米国は一層中国との連帯を強めていく。

 アジアに欧米列強が進出していたから、自国の植民地化を避けるために、朝鮮半島、さらには大陸の一部を支配する必要があったのだ、という日本帝国主義擁護論もある。

 しかし、欧米では、平和主義、国際主義の風潮も影響力を増していた。人権思想も現れ始めており、のちの世界人権宣言(1948年)へとつながっていく。

 日中戦争を考える場合、そういう視点も重要だ。国家としての日本が中国という主権国家を侵害したのみならず、日本の軍隊、政府、市民までもが、個々の中国人の人権を無視、軽視していた。

 今日の国際社会は、30年代とは別個の世界である。国境を越えた交流やつながりが作り上げるグローバル化時代だからこそ、人間としての日本人、中国人がどう結びあっていくのかを考えるべきだ。

 だが残念ながら、戦後日本では米国との戦争の経緯については注目を集めるのに、日中戦争への一般の関心は必ずしも高くない。歴史観の違いはともかく、中国人は日中戦争についてよく知っている。日中戦争とは、日本では依然忘れられている戦争ではないか。(聞き手・三浦俊章)

 ◆キーワード

 <盧溝橋事件> 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍が実弾射撃音を聞いたことをきっかけに、近くの中国軍と戦闘になった事件。日中全面戦争の発端となった。日本軍は1900年の義和団事件のあと、天津に駐屯。36年から盧溝橋近くに部隊を駐留させていた。なお、北京は28年6月〜37年10月の間、「北平(ペイピン)」と呼ばれたが、記事では北京に統一した。
    −−「日中戦争の発火点 盧溝橋事件80年」、『朝日新聞』2017年06月25日(日)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S13003819.html


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