覚え書:「掌の教養 岩波文庫90年:中 古くさい? 若者にどう届ける 「知的権威」戦後に曲がり角」、『朝日新聞』2017年07月11日(火)付。

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掌の教養 岩波文庫90年:中 古くさい? 若者にどう届ける 「知的権威」戦後に曲がり角
2017年7月11日

東京大学で売れている文庫ベスト10
 「私共のように知識に渇し、而(しか)も読書費に乏しい者にどれだけのよろこびと慰めを与えてくれたか知れません 岩手県の閑村(かんそん)にて 一読者」

 岩波書店の創業者岩波茂雄(1881〜1946)が発案した、岩波文庫。90年前の創刊当時、各地から激励や称賛の便りが連日寄せられた。『岩波文庫物語』(山崎安雄著、62年刊)に、そんな人々の声がいくつも紹介されている。

 高価な存在だった本を、カレーライス1杯と同程度の廉価で売り出し、手軽に読めるものにした。茂雄は後に、「本屋になってよかった」と語ったという。

 改造社春陽堂なども相次いで文庫を始めた。

 満州事変や二・二六事件など戦争の影が色濃くなる中、政府の検閲が強まる。岩波文庫は40年、『賃労働と資本』などマルクス主義を紹介する翻訳物を中心に発禁処分に。一方で、志賀直哉夏目漱石ら人気作家の著書が兵士への慰問品として戦線へと送られた。

 25年に山形県鶴岡市に生まれた作家、丸谷才一(2012年死去)は10代半ばから熱心な読者だった。町中の書店の棚にそろう岩波文庫を眺め、少ない小遣いから必死に選んだという。そんな体験を雑誌「東京人」(88年5月号)で振り返り、こう語っている。

 「岩波文庫というのは、『良書推薦の仕組み』という性格がたいへん強かった」

 だが戦後になってからの存在意義について、同誌で辛い批評を続けている。

 「激しい知的好奇心をそそる感じのものがない」

 「いかにも趣味が古くさくて十九世紀的・保守的」

 東京・神保町の岩波専門の古書店、山陽堂書店の福田惣一さん(72)は「熱心な学生が来たのは70〜80年代までだった」。「知的権威」と目された岩波文庫が曲がり角を迎えていく。

 ■「人生訓を」手に取る学生

 「それまでの純文学志向、名著の厳選という岩波文庫型の、出版社から読者へという一方通行から、読者のニーズをキャッチし、新しいニーズを創造していくという双方通行に切り換えた」(角川春樹『わが闘争』)

 71年、文庫業界に変革期が訪れる。角川春樹氏(75)=現・角川春樹事務所社長=が角川書店の編集局長に就任。横溝正史犬神家の一族』を文庫化に続いて映画化し、成功を収める。森村誠一赤川次郎ら若手作品でもメディアミックスを仕掛け、小松左京星新一らSF作品も文庫に組み込みヒットを飛ばした。出版各社が参入する「文庫戦争」の呼び水となる。

 自身の半生を記した『わが闘争』でこう書いた。

 「文化などというのは、後からついてくるものだ」

 空前の文庫ブームにも、「異なる分野でハデにやっている印象だった」。80年代に岩波文庫の編集者を務めた天野泰明さん(64)は振り返る。「ブームに乗って他社のまねをする必要はないと感じていた」

 この頃、「いわなみ」と読めず「ガンバ文庫」と読む若者が出てきていた。超然と古典路線を貫きつつ、若者に手にとってもらう試行錯誤を始めた。文庫の名句を数行ずつ集めた別冊『ことばの花束』の刊行などだ。「伝えたいと思うものが古典になっていくと信じてやってきた」

 そして、現在――。

 東京・日本橋。商業施設コレド室町に入る「タロー書房」は、小さな売り場に2千点近い岩波文庫を並べる。主な購買層は会社員。年約2400冊が堅調に売れる。永藤哲太朗取締役(34)は「変わらず『知』の代表。じっくり選んでくれるお客さんは多い」。

 東大・駒場キャンパス。生協の書店で昨年度、出版社別で最も売れた文庫は岩波だった。2年の男子学生(20)は「生きていく上での教訓が詰まっている」。哲学を読み、語り合う友人もできたという。(塩原賢)
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http://www.asahi.com/articles/DA3S13029494.html





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