覚え書:「掌の教養 岩波文庫90年:下 山崎正和さん、柴崎友香さんに聞く」、『朝日新聞』2017年07月12日(水)付。

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掌の教養 岩波文庫90年:下 山崎正和さん、柴崎友香さんに聞く
2017年7月12日

山崎正和さん=槌谷綾二撮影  
写真・図版
 教養を身に着ける手段として、文庫とはどういう存在だったのか。日頃の文庫とのつきあい方は――。劇作家で評論家の山崎正和さんと、文庫が好きだという作家の柴崎友香さんに聞いた。

 ■「知的中流社会」文庫が支えた 劇作家・評論家、山崎正和さん

 文庫の原点は古典や名著を広く読んでもらうことでした。単に古典を引き写すだけでなく、文庫は積極的に新たな古典を作り出していると言えるでしょう。

 古典を読みやすい形で出版するという考え方は岩波文庫が切り開き、功績は大きい。講談社学術文庫は、こんなものが本当に売れるのかと思うほど難しく、高度なものを掘り出している。新潮文庫は明らかに文学が優れている。

 私が自分の人生に杭を打ち込むような本に出合ったのは18歳。思想的な飢えにあった時、大学の前の古い書店でたまたま手に取ったのが、ベルクソン『哲学入門・変化の知覚』(岩波文庫)でした。

 棚の前で驚きました。訳者の河野与一さんが1ページ目で「ベルクソンは危険な思想家である」と解説していた。哲学の素人がこれを読むと危ない、と。飛びつきました。確かに難しい。しかし軟らかな日本語の優れた翻訳で、哲学書としてはおそろしく漢字が少ない。ものを考える、素手で考えるということを学びました。

 岩波文庫が創刊されたのはエリートが大量生産された時代でした。学制改革旧制高校が増え、私学も専門学校から大学に昇格します。卒業生が世に出て、日本中にインテリがあふれ出た。同じ頃に雑誌「文芸春秋」が生まれます。どちらも知的水準が高く、広く読者を開発することが目的でした。

 大正末期から昭和初期に新しい出版の動きが重なったのは面白い現象です。朝日新聞毎日新聞が100万部を突破したのもこの頃。みんなが知的欲望を持ち、日本は「知的中流社会」になったのです。

 ところが、活字文化は今や一斉に没落しています。文庫は汽車や電車での時間つぶしでしたが、スマートフォンに取って代わられた。これは痛い。文庫は踏ん張っているが、とりわけ総合雑誌は厳しい。新聞もそう。つまり「総合の知」が没落している。

 若い読者は自分の関心を広げられることを拒否する。知りたいことだけSNSで知ることができればいいと。偶然見て、これは面白いという体験がない。

 世の中には思いがけないことがあるとわかることは大事です。人間はそれで賢くなる。そういった関心の持ち方が衰えている。せっかくつくった知的中流社会を日本は手放すことになるかもしれない。いろんな文庫が世の中にはある。まだ底力は残っていると信じたい。

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 やまざき・まさかず 1934年京都生まれ。『柔らかい個人主義の誕生』『山崎正和全戯曲』など。

 ■気軽に読めて、世界が広がる 作家・柴崎友香さん

 本を選ぶ時、古典だから、海外、国内の文学だからと分けることはありません。興味があるかどうか。区別せずにいられたのは、文庫なら容易に手に入ることも理由の一つだと思います。

 本を読む時、教訓を得ないといけない、感動しないといけないと構えなくてもいいと思います。その本に最初に接するときは、なんでそんなことするんやろとか、カフカって妙なこと考える人やな、と自由に読んで、そこから考えていけばいいんじゃないでしょうか。漫画や映画もですが興味の向くまま、文庫本を手に取ります。お風呂に入りながら読む文庫本もあります。

 古代ローマの哲学者セネカ『生の短さについて』(岩波文庫)は高校の授業で知り、改めて自分で買いました。2千年前の人間も今と同じようなことを悩み、考えていることに励まされます。中国の清代の不思議なお話を集めた『聊斎志異(りょうさいしい)』(同)は好きな漫画が共通する友人から薦められて。好きな作家や友人のお薦めで本を手にとることが多く、人に会うと何が面白かったかを聞いています。

 本を通して違う価値観に出合えると世界が広がる。気軽に手に取れるものの中に、2千年前の思索や自分の発想を超える物語が詰まっている。そのことについては恵まれた環境にいると思います。

 (聞き手・中村真理子

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 しばさき・ともか 1973年大阪生まれ。「春の庭」で芥川賞。『パノララ』など。

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    −−「掌の教養 岩波文庫90年:下 山崎正和さん、柴崎友香さんに聞く」、『朝日新聞』2017年07月12日(水)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S13031478.html


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