日記:批判によってこそ、宗教は宗教たりえるのではないのか。


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キリスト教同志社小学校
 宗教は個人の生き方を教えるものである、とよく言われる。だから宗教教団の戦争責任とか、社会的責任といった問題は、信仰とは無関係であると主張される。
 それならば、なぜ宗教教団という集団があり、教団を通して信仰するのだろうか。一人一人が直接信じるものと向き合っていればそれでよいのではないか。教団があり、その教団が現実の社会で機能している以上、教団の信仰者は教団が何をしているか、意見を言うべきではないか。他の教団の信仰者は、宗教の名の下で行われていることに批判を鋭くすべきではないのか。批判によってこそ、疑問を抱いた人びとの信頼を得るのではないか。
 たとえば、私の家の近くに同志社の小学校ができた。広い前庭をもつ低層の美しい建物は大人の背丈よりかなり高い金属製のフェンスで囲まれている。しかもその上に、電気線のようなものが張り巡らされている。昨今の学校安全の先端を行っているつもりであろう。親たちにも、こんなに安全に配慮しています、と宣伝しているのであろう。ところで、高い倍率の試験で選ばれ、同じ学園の中学、高等学校、大学への進学がほぼ約束された子どもたちは、この美しい“檻”のなかの学校をどう思うのだろうか。悪い人がいるから用心しなくては、選ばれた者にはふさわしい環境がいる、そう信じて格差を疑わない青年に育っていくのだろうか。
 私は「マルコの福音書」の言葉、たとえば「イエスは言った。律法学者たちに警戒せよ。彼らの望むのは長衣を着て歩きまわることと市場で挨拶されること。それに会堂での最上席と食事においての特等席だ。かれらは寡婦たちの家々をむさぼり、見せかけだけのながながとした祈りをする者どもだ」を思い浮かべる。イエスは批判することによって社会のあり方を説き続けた。新島襄の創ったキリスト教主義学園の体制順応政策に対し、批判を忘れない者がキリスト者ではないのか。宗教のもとでの教育はそんなものでないと批判するのが、仏教者の務めではないのか。批判によってこそ、宗教は宗教たりえるのではないのか。
    −−野田正彰『見得切り政治のあとに』みすず書房、2008年、80−81頁。

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