覚え書:「耕論 メディア真っ二つ? 大石裕さん、詩森ろばさん、立岩陽一郎さん」、『朝日新聞』2017年07月13日(木)付。

Resize8736

        • -

耕論 メディア真っ二つ? 大石裕さん、詩森ろばさん、立岩陽一郎さん
2017年7月13日
 
 政府の姿勢に賛成か反対か。安全保障法制や「共謀罪」法などを巡り、メディアの立ち位置が真っ二つに割れることが増えてきたように見える。どう考えればいいのか。

 

 ■小さな「対立」、大きく誤認 大石裕さん(慶応大教授)

 読売新聞の前川喜平・前文部科学事務次官の「出会い系バー」を巡る報道は、政権とメディアが保つべき一線を越えた、大きな問題を持つものでした。加計(かけ)学園問題で、前川氏が安倍政権を正面から批判し始めるタイミングで読売に記事が出た。読売の社会部長は紙面で「公共の関心事」と説明しましたが、説得力があったとはとても思えません。

 政治家が記者に情報を提供して政局をつくる局面は、これまでも存在してきました。一方で記者側は書きぶりを工夫するなどして一定の緊張関係を維持してきた。今回の記事の背景はわかりませんが読売はその暗黙のルールを無視してしまったようにみえる。

 昨今、新聞などの既存メディアが「政権寄り」と「政権批判」の二極に分断しているとする主張があります。読売報道をこの流れに位置づける見方もありますが、ジャーナリズムの問題はより根深い。

 確かに、特定の争点について、各紙の論調は二極化しています。安全保障法制、憲法9条改正、原発のあり方、「共謀罪」を巡る議論などです。世論調査で、民意も「分断されている」という結果が出る。ただこれは調査で「発見された分断」です。そもそも欧米メディアと比較すると日本の既存メディアの価値観と論調は今なお、互いに似通っていることが特徴です。

 わかりやすい例が沖縄の米軍基地を巡る議論でしょう。読売新聞が「政府寄り」で朝日新聞が「沖縄寄り」、という大きな違いがあるイメージがある。ただ記事を分析すると、ともに沖縄の負担軽減を主張しながらも、日米関係の重視という点は共通し、基地問題解決についても具体論はない。負担軽減に向けて政府は「丁寧に進めるべきだ」と言うか、「寄り添って進めるべきだ」と言うか、その程度の違いしかありません。

 部数が右肩下がりで減っているとは言え、世界屈指の部数を誇る日本の全国紙は非常に多くの読者を抱えている。新聞記者は社会から独立して権力を監視していると自負しますが、実際には読者の平均的な意見から大きく離れられない。「総中流幻想」による同質性の高い社会の内部で対立しているにすぎない。

 この「小さな」対立を大きな対立であるかのように増幅させているのがインターネットです。新聞社の「論」はネットでほとんど読まれていない。ネットでの一部の情報や思い込みによって憲法歴史認識という限定的なテーマへのスタンスが時に誤解も含めて強調され、その結果、新聞の言論に関するイメージが定着してしまっている。

 記事や主張がきちんと社会に届いていない。言論機関としては、既存メディア間の分断より、こちらの方がはるかに問題でしょう。(聞き手・高久潤)

     *

 おおいしゆたか 56年生まれ。ジャーナリズム論。著書に「批判する/批判されるジャーナリズム」など。

 

 ■「不偏不党」でなくていい 詩森ろばさん(劇作家)

 文科省事務次官についての読売新聞の記事には、「ここまで来たか」と驚きました。でもね。一方で、実は私は御用新聞があってもいいと思っているんですよ。メディアがそれぞれの立ち位置を鮮明にするのは、市民社会にとって良いことではないでしょうか。

 そう考えるようになったのは8年前に「無頼茫々(ぼうぼう)」という芝居を作ったのがきっかけでした。発売停止処分などによって新聞が政府からの圧力にさらされた大正時代の実話をもとに描いた戯曲です。

 調べていて印象的だったのは「不偏不党」の気味悪さです。この言葉は、1918(大正7)年に大阪朝日の記事を問題視した政府が発売禁止にして筆者らを起訴した「白虹(はっこう)事件」の際、朝日が紙面に載せた謝罪文で新しく打ち出した方針でした。

 当時の寺内正毅内閣が米騒動に無策だったことに、大阪朝日はとりわけ厳しい論調でした。そのさなか、不吉な予兆を示す中国の故事「白虹日を貫けり」を引いた記事が朝日に出た。政府は権力の転覆と皇室の尊厳を冒す疑いがあるとして、弾圧に出たのです。朝日が「これからは不偏不党で行く」と謝ったことで廃刊は免れましたが、政府に都合の悪いことは今後一切書きません、と読者に宣言したも同然だったと思います。

 メディアが偏っていていけないのか。誰が得をするのか。そう考えると、権力こそが不偏不党を望んでいたと思います。この影響は現在まで続いていて、「偏っている」ことが、権力がメディアへの圧力をちらつかせる際の口実になっている。

 「無頼茫々」で私は、不偏不党に疑問を持つ新聞記者にこんなセリフを言わせました。「報道とは、三つも四つもある道を指し示し、こんなにたくさんありますよ、と訳知り顔に言うことなのか。己の手さえも見えぬ霧の中、正しき道はこちらではないかと、恐れのうちに一本の道標で指し示すことなのか」「新聞は、また間違うかもしれないと恐怖に耐えて、また一本の道を指し示さなくてはならんのではないでしょうか」

 政府の肩を持ちたいなら御用新聞であればいい。やみくもに批判する新聞もあっていい。私はメディアは偏っていてもいいと思う。私たちに選ぶ力があれば、ダメなものは淘汰されていくはず。私は自分の考えを刷新できるような視座のある記事を読みたい。

 でも現実には、メディアに不偏不党を求める人はとても多いですね。その姿勢はあまりにも受け身で、自分で考えることを放棄しているように見える。この時代、メディアの責任はもちろん大きいです。でも、市民がメディアは偏ってはならないと無垢(むく)に信じて批判することのほうが、よほど恐ろしいようにも感じるのです。(聞き手・田玉恵美)

     *

 しもりろば 63年生まれ。劇団「風琴工房」主宰。アイスホッケーが題材の「ペナルティキリング」を14日から上演。

 

 ■対政権、米国より状況深刻 立岩陽一郎さん(元NHK記者)

 今年の初めから、米ワシントンにあるアメリカン大学の客員研究員として、政権とメディアの関係や調査報道について研究してきました。メディアが分断されているのは日米共通のようです。

 米国では多くのジャーナリストが異口同音に、メディアと民主主義の危機を訴えます。大統領が自身のツイッターで、顔が米CNNのロゴになっている男性を自らが倒したり、殴ったりしているプロレスの場外乱闘の動画を投稿しているのは、確かに異常ですね。でも、私には、日本に比べると、しっかりとした基盤の上で騒動が続いているように見えます。トランプ政権の米国よりも、日本のメディアの方が、より深刻な状況にあるように思えてなりません。

 政府に好意的か批判的か、保守か革新かなど、様々なメディアが存在するのは健全でしょう。しかし、現在の日本では、米国とは異なり、権力をどう抑制するかという憲法をめぐって、メディアによって意見が異なっています。権力を監視するといったメディアの役割についての共通の土台がゆらぎ、非常に不安定な状況を生み出しているのではないでしょうか。

 ショックを受けたのは、米国の公共放送のベテラン記者から、日本のメディアは政党色がついていると指摘されたことでした。事実がどうあれ、少なくとも外からそう見られているのです。

 こうした状況を招いているのは、日本では少しでも早く情報をつかんで競争相手を出し抜くことが重視されすぎているためだと思います。権力側は情報を一部のメディアにリークすることで報道をコントロールしやすくなります。

 無論、米国にも競争があり、権力側の情報をいち早くつかもうとしのぎを削っています。しかし、日本と異なり、記者やメディアの評価には必ずしもつながりません。「取材対象に食い込んで」早く報道するだけでは、「権力者に近い記者だ」と批判されることもあります。

 前川喜平・前文部科学事務次官のインタビューをNHKが最初に行ったのに、いまだに放送されていないと指摘されていますね。理由は分かりませんが、私も社会部記者時代、有力政治家に裏金を渡したというインタビューが放送されなかった経験があります。「大事なネタだから裏を取る必要がある」と社会部と政治部の間で時間が浪費されました。有力政治家への確認は当時は政治部が行っており、確認がとれないために報道ができなかったのです。

 現場の記者は一生懸命取材しているのだと思います。権力を監視するためにも、様々な立場の記者同士がもっと敬意を持って交流できる基盤をつくることが大切だと思います。(聞き手・池田伸壹)

     *

 たていわよういちろう 67年生まれ。テヘラン支局、社会部などを経て昨年NHKを退職。調査報道NPO「アイアジア」編集長。
    −−「耕論 メディア真っ二つ? 大石裕さん、詩森ろばさん、立岩陽一郎さん」、『朝日新聞』2017年07月13日(木)付。

        • -


http://www.asahi.com/articles/DA3S13033426.html





Resize8636

Resize7543