日記:女性は家族の「時間財」


        • -

女性は家族の「時間財」
 家電製品をはじめとする家事のテクノロジーは、基本的にこの「つねに家にいる主婦」を前提として作られているため、女性の家事時間は一向に減らない。それどころか、変化する家庭生活や家事の方法に対し柔軟な変更を要請されるのは、つねに女性の受け持つ家事に大幅に偏ってきた。これは、女性が有償労働に従事するようになっても変わらなかった。
 この点は、A・R・ホックシールドの『セカンド・シフト』に詳しい。共働き世帯が増加し、女性が外で働いて帰宅しても、待っているのはくつろぎややすらぎではなく、「次の仕事(セカンド・シフト)」。家族のケアに奔走する女性の時間は、際限なく削られていく過酷な現実が待っている……。
 以上、見てきたように、家事のテクノロジーの進化は、家事のやり方を変え省力化する一方で、毎日の家事の水準を大幅に上昇させた。テクノロジーが進化する前は、あえてする必要はないとされていた贅沢が、一般化したためである。
 たとえば、毎日洗濯された真っ白な衣服に、アイロンのきいたシャツ、清潔な水回りなどは、テクノロジーが普及するまでは決して庶民には入手できないものであった。そしてテクノロジーの向上によって、アウトソージング可能となったものはあっても、手間がかり評価もされない「チョア」はつねに残されていた。それゆえ、たとえ共働きが多数派を占めるようになった現在でも、家事育児の負担は女性偏重のままとなっている。
 この、家事のテクノロジーと、主婦の労力とのいたちごっこは、いったいどこに起因するのだろう? 筆者はこの点に関し、「女性は家族の『時間財』」としてみなされてきたことが要因と考える。19世紀以降、賃労働が重視され、家庭内でなされてきた仕事のうち、男性が担ってきた分野はどんどんアウトソージング可能になった。だが、一方女性の「チョア」は一向に減らないどころか、変化する社会に対し柔軟に時間を差し出し、対応を要請されてきたのは、つねに女性であった。
 あえて言えば、女性の時間は女性個人のものではなく、家族の共有財産であると考えられているのではないか。それゆえ、変化する社会の中で、より価値ある社会資源(貨幣や社会的地位)などに直結する社会活動参加は男性中心に行われ、その分新たに生じた価値の低い「チョア」はいつまでも女性が対応を要請されてきた。そしてそれは、「愛情」をもって「自発的」になされるべきものとされてきた。
 だが、待てよ、と思う。人間、持って生まれてきた寿命とは「時間」であり、好きに使える時間の量こそが、どれだけ自分の人生を生きたかを決定するのではないか。たしかに、女性の平均寿命は男性よりも長い傾向があるが、「自分が生涯のうちで自由に使い得る時間」は、男性よりずっと短いように思える。
 日本語の「後家楽」、つまり女性は夫が死んでようやく楽ができる……とはよく言ったものである。夫が死んでケア義務のある対象がすべていなくなってから、女性はようやく、自分の時間を獲得することができるのだ。第1部で指摘した、日本の男女の寿命格差の長さ(約6年)は、もしかしたらようやく「自由時間」を手に入れた女性が、できるだけ長くこのときを堪能したいという思いも反映しているのではないか……、などと穿った見方をしたくもなる。
 さて、コーワンが指摘するアメリカ人女性の時間配分以上に、日本の女性の家事労働時間は長く、手間数は多く、期待される母や妻の役割規範も強固である。
    −−水無田気流『「居場所」のない男、「時間」がない女』日本経済新聞出版社、2015年、156−158頁。

        • -

Resize7762