覚え書:「日曜に想う 祖父が最後の人事で狙ったもの 編集委員・曽我豪」、『朝日新聞』2017年08月13日(日)付。


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日曜に想う 祖父が最後の人事で狙ったもの 編集委員・曽我豪
2017年8月13日

写真・図版
「夢の僕」 絵・皆川明
 栄華の頂点で衰亡の兆しが現れる。古今東西変わらぬ政治の摂理だ。そして為政者は過去の成功にならおうとする。それだけ、未来が見通せないからだ。

 ほんの3カ月前、安倍晋三首相は3期9年の任期延長をほぼ手中にして、いよいよ本願の憲法改正の実現目標を表明した。だがその頂点で、後に首相も認めた驕(おご)り緩ログイン前の続きみは既に権力をむしばんでいた。

 一転徳俵に追い込まれた首相が内閣改造自民党人事で岸田文雄氏の取り込みを策したとき、ならうべき過去がひとつあった。ほぼ60年前、祖父・岸信介首相がよく似た政権の危機下で術策の限りを尽くした改造人事である。最後の標的は岸田派の源流である宏池会の創設者、池田勇人。岸の術策は何のためだったか。

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 1958年5月、55年体制下で初の総選挙があり、岸政権は300議席に迫る圧勝で自社の2大政党対決を制した。主流4派は副総裁と党三役を独占し、閣僚19人のうち14人を占めた。当時そんな言葉はなかったが、今で言う「一強」の「お友達内閣」ではあったろう。

 だがわずか半年で暗転する。そのいきさつは、「岸信介証言録」(原彬久編 中公文庫)と「聞書 池田勇人」(塩口喜乙著 朝日新聞社)に生々しい。

 日米安保条約改定に向け両国が東京で交渉を開始した10月4日はちょうど、政府が警察官職務執行法改正案の国会提出を準備していると新聞が報道した日でもあった。すぐさま、社会党はじめ野党勢力は改正案に「政治的集団犯罪の予防と制止」をみて猛反発し、「デートもできない警職法」のスローガンのもと、大衆運動を展開した。「ほとんどゼネストの様相を呈した」結果、11月末には審議未了・廃案に追い込まれた。岸首相は総裁選の繰り上げと再選で押し返そうとしたが、逆に非主流派は硬化する。年末には池田勇人三木武夫灘尾弘吉の3閣僚が辞任し、政権は窮地に立った。

 そこで翌59年6月、参院選をしのいだ岸首相が「挙党一致」に向けた反転攻勢の起点にしようと試みたのが内閣改造である。中でも、非主流派の2大巨頭で、岸後継を競うライバル関係にあった池田勇人河野一郎の2人を主流派に転じさせようとした。だが河野一郎は、今回外相に就いた孫の河野太郎氏とは違い、河野幹事長案が浮上するも、最後まで首相の説得に首を縦に振らなかった。

 前後して池田に対して猛烈な取り込み工作が始まる。使いに立ったのは、岸の娘婿で現首相の実父、安倍晋太郎。副総理を用意したと伝えた。岸サイドは池田の持論である所得倍増論を岸内閣の政策にすると口説きもした。それでも池田は改造当日まで迷い、最後は側近の大平正芳が「(モーニングの)ズボンをはかせて組閣本部に送り込んだ」のだという。

 池田は結局、通産相に就き、結果的に岸の支持と後継の切符を手にする。だがなぜ、岸は自分の「最後の人事」の眼目が池田だと念じたのか。その答えは「証言録」の岸の言葉に明らかだ。

 「池田君は初めから安保条約の改定にあまり積極的ではなかったんだ。しかし彼がこの人事で入閣してくれれば、背後における吉田(茂元首相)さんの影響力をもって池田君が安保改定に協力してくれると踏んでいた。あの人事はそういう意味において非常に成功だった」

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 岸の「日米安保」を今日の安倍首相に置き換えれば「憲法改正」になる。そして、池田勇人岸田文雄氏に置き換える場合、主流派を約束させるのは同じだとしても、おのずと違う点がある。憲法改正に向けた発議を実現するには、内閣より、党議決定と政党間協議を担う自民党執行部である。外相留任でなければ岸田政調会長というのは自然な流れだった。

 もちろん首相は、秋の改正案提出を見送るなど、日程上の修正は施すことだろう。だが諦めたとは一言も言ってはいないのだ。政権浮揚の妙案が見当たらない一方で首相は、民進党の保守派から小池百合子都知事橋下徹大阪市長まで新たな「改憲連合」のふくらみに期待もしよう。「執念と機略」の政治家と言われた祖父にならおうとするなら。
    −−「日曜に想う 祖父が最後の人事で狙ったもの 編集委員・曽我豪」、『朝日新聞』2017年08月13日(日)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S13085034.html


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