覚え書:「忘れゆく国で 戦後72年/1(その1) 特攻題材、自己啓発」、『毎日新聞』2017年08月12日(土)付。


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忘れゆく国で

戦後72年/1(その1) 特攻題材、自己啓発

毎日新聞2017年8月12日

知覧特攻基地の飛行場跡には今、サツマ芋畑が一面に広がる。72年前、早朝に飛び立っていった若者たちは、生きて帰ることが許されなかった=鹿児島県南九州市で2017年7月、渡部直樹撮影

慰霊の地で「活入れ」研修
 太平洋戦争末期に旧陸軍の特攻隊の基地だったことで知られる鹿児島県南九州市知覧町。飛行機ごと米艦に突っ込むよう命じられ、飛び立っていった若者たちの記憶が刻まれている。この慰霊の地が今、感性を磨き、士気を高める研修に使われているという。自らに活を入れるとの意味で「活入れ」と呼ぶ人もいる。何が起きているのか。私は現地へ飛び、研修に参加した。

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 7月11日午後3時。鹿児島空港で迎えられ、小型バスに乗り込んだ。広島市の人材育成会社「ザメディアジョン」が主催する1泊2日の知覧研修。費用は1人3万7800円だ。ほかのメンバーは、神奈川や広島などから集まった経営者や会社幹部ら20〜40代の男女計8人。「新しい挑戦への決意を固めたい」「自分の生き方を考える場になる」。車内での自己紹介では前向きな言葉が相次いだ。

 約2時間かかって知覧町の「富屋旅館」に着いた。軍用食堂を営みながら特攻隊員の世話をし、「特攻の母」と呼ばれた鳥浜トメさん(故人)が戦後、慰霊に訪れる遺族のために始めた。キャッチフレーズは「心で感じる気づきの宿」だ。

 1階の大広間に通され、正座して待った。トメさんの孫の妻であるおかみが現れる。「この部屋には戦時中、隊員が訪れました」と語り始めると、厳粛な雰囲気になり、背筋が伸びた。

 おかみは「72年前の若者たちは、後世の私たちに何を託して飛び立っていらっしゃったのだろうか」と言って隊員が家族にあてた遺書を読み上げ、矢継ぎ早に問いを重ねる。「己にはどんな任務があると思いますか」「この命がなすべきことは何なのでしょうか」。広がる沈黙。時に答えを紙に書かされ、発言を求められる。1時間20分の講話の後、ある男性参加者は「何も考えていないと自覚した」と反省を口にした。

 4回目の参加となる岐阜市の美容関連会社の男性役員(33)は「新規出店の大勝負の前に、雷に打たれるために来た」。男性にとって特攻隊員は「自ら命を捨てに行った理解できない人たち」だった。何度も足を運ぶうち、最後までやり遂げる純粋さ、思いの強さ、大切な家族や恋人を守ろうとした愛を感じ「すてきだ」と思うようになったという。

 「特攻隊の人たちがライバル会社にいたら勝てる気がしないですよね」。屈託なくほほ笑んだ。「スイッチ、入りました」

 研修は2007年に始まった。パンフレットなどでは、生きることの大切さと感謝、気付きを学び、感性を磨く「価値観教育」を目的に掲げる。中小企業の経営者や新入社員、内定者を中心に参加者は間もなく5000人を超える。

 主催するザメディアジョンの山近義幸代表(55)は研修中、青々としたサツマ芋畑が広がる飛行場跡地など戦跡を巡りながら、繰り返した。「特攻を美化してはいけないし、風化させてもいけない」

 間違ってはいない、と思う。他の参加者も真剣だった。でも、違和感がぬぐえない。知覧は現代を生きる私たちにとって、気合を入れるための場所なのか−−。【山衛守剛】

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 戦後72年。戦争の記憶が薄れる中、この国で人々が共有してきた価値観が揺らいでいる。平和をどう守り、次の世代につないでいけばよいのか。記者たちが現場から考える。 (次回から社会面に掲載します)
    −−「忘れゆく国で 戦後72年/1(その1) 特攻題材、自己啓発」、『毎日新聞』2017年08月12日(土)付。

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