日記:必要悪としての権力

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 ロックが近代自由主義の元祖とされるのにたいし、一八世紀フランスの思想家ルソーは、近代民主主義の元祖ともよばれます。そしてルソーは、ホッブズやロックとはかなり違う、「われわれ」の作り方を構想しました。
 ところで、自由主義と民主主義は、どこが違うのでしょうか。ごく簡単にいうと、自由主義は権力から自由になるのがいいという考え方。民主主義は、みんなで権力を作るのがいいという考え方。
 ですから自由主義では、権力はできるだけ小さく、できるだけ税金が安く、人びとが自由になればよい。しかしまったく自由勝手では、ルールのない闘争になってしまい、結果として自然権が守られないかもしれない。そこで、しかたなく合意のうえで、人工的に権力をつくる。
 しかしその場合、王政であるか、民主政であるかは、必ずしも問われません。権力を必要最小限にするのが自由主義の目的で、権力の内容はそれほど重視されないのです。王政にしろ民主政にしろ、権力は必要悪にすぎないものだから、小さければそれに越したことはない、という考え方です。
 ところが近代民主主義では、みんなで「われわれの権力」を作り、「われわれの意志」が反映されて運営されることが目的になります。「われわれの権力」になれば、よい権力ですから、大きくてもいい。税金をたくさんとっても、規制をしても、みんなの合意で福祉政策をなどをやってくれるからよい、という考え方になります。
 では近代民主主義では、その「われわれ」とは、どうやって作られるのでしょうか。古代だったら、村とかポリスとか共同体そのものがありますから、そこで全員参加で民会を開けばいい。しかし近代になって国が大きくなってしまったら、民会には集まれません。ルソーは直接民主主義しか民主政と認めてはいませんでしたが、民主制は貧しい小さな国に向いていると考えていました。第4章で紹介したスイスの民会を考えれば、当然です。
 そこから代議制だということになりますが、ルソーに言わせれば、「代表」という考え方は、身分ごとに代表が決まっていた封建制の産物です。人間が「自由」で「平等」になって、家長や村長を代表とみなさなくなり、家や身分といった「われわれ」が見えなくなってきたら、それは難しくなります。
 ロックやホッブズは、そうなったら契約して国家を作ればいいと述べました。しかしそれは、自然権を守るための必要悪として作るだけです。国家に愛着を持つようなものではないし、自然権を守ればできるだけ小さいほうがいい。民主主義であるかどうか二の次で、「よい権力」などありません。
 ルソーが考えたのは、それとは違うことでした。「われわれ」を作るにはどうしたらいいか、ということです。それは同時に、多数決をとって数の多いほうを「民意」とするしかないのか、それでは「われわれの意志」とはいえないではないか、という問題にもつながります。民主制は古代からありますが、この問題を考えたのが、ルソーが近代民主主義の元祖とよばれるゆえんです。
    −−小熊英二『社会を変えるには』講談社現代新書、2012年、296ー298頁。

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