日記:進化論と無の認識の直結という特殊な認識によって生きている日本の知識階級者

        • -

 日本の近代階級に健全だと考えられる思考型式、たとえば志賀直哉的なものは、仏教や老子の思想が日本で形式化し葬祭の儀式化して生命を失ったあとに残した無の認識の型と進化論以後の近代の自然科学的認識との結びつきである。これは、近代の東洋の他の国にも例が少ないし、西洋の近代思想の原型であるキリスト教的他者の認識と論理との結びつきとも違うところの、近代日本にのみ特有のものである、と私には考えられる。日本の無の思考型は、明治二十年頃から多く輸入されたスペンサアなどの進化論的認識と結びついて、無、宇宙、微生物、植物、動物、人間という順で積み重ねられて現代日本の知識人の無信仰性を支えている。我々が自然を愛し、草木を愛好し、自然性と調和した庭園や家屋や芸術を持つのも、我々の発想が自然感を通して無に連結して安定するからである。ヨーロッパ人の装飾法、庭園が人工的で人間的であることはその逆である。世界各国の現代人のうち、日本の知識階級ほど、無信仰でしかも割合に混乱せずに生きている人間集団は少ないように思われる。
 このような図式の、進化論と無の認識の直結という特殊な認識によって生きている日本の知識階級者は、志賀直哉において見られるように、自然的存在として人間を考えることで、バランスのよい極を持っている。しかし、その堅固さは、社会的他者の認識による社会的組み合わせ以前のものであって、家族と親戚までしか確実に考えることができないのである。我々は草花を愛し、床の間に生け花を置きながら、公園を汚して何とも思わない。たとえば私自身を反省しても、この範囲からいくらもはみ出ていないように思われる。神を考えずには近代文学は存在し得ないとか、神の意識を我々は持っていないとか、日本の当代の立論者は言うが、我々は神の代わりに無を考えることによって安定しているのである。考える力がないのではない。考える必要を感じないでバランスを保っているに過ぎない。無の絶対は、神の絶対と同じように強いものである。ヨーロッパ人における無宗教の知識階級者は、型としてはやっぱりキリスト教的な他我への働きかけを原型として持っている。この型は自然的であるよりも社会的であるから、型そのものとしては市民生活の組織の中に生きやすくできている。集合して生存する人間の間の調和感は、神的な実在感とか、未來の理想社会というような型の、有の極を持っていない時には、集中する力を失って狂いがちになる。ヨーロッパ文学には中世から後、無信仰者やクリスチャンによる理想国のイメージが、トマス・ムア以来、いなダンテ以来絶えることなく書き続けられている。それは日本の文学において『方丈記』以来の遁世の理想的孤独人のイメージが代々受けつがれて書かれて来たのと、反対の方向を持つものとして比べられるべきだろう。
    −−伊藤整「近代日本人の発想の諸型式」『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫、1981年、54−56頁。

        • -