覚え書:「論点 シリーズ憲法70年 教育無償化の道は」、『毎日新聞』2017年09月08日(金)付。

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論点

シリーズ憲法70年 教育無償化の道は

毎日新聞2017年9月8日 東京朝刊


 自民党憲法改正項目の候補に挙げる「高等教育を含む教育無償化」。大学授業料が高騰し、所得の低い家の子どもが高等教育を受けにくくなっている現状を打破しようという試みだが、「財源を確保できるのか」「無償化に改憲は不要」との声もある。子どもが望む教育を受けられるようにするために、いま何をすべきなのか。


鈴木寛
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「学習権」保障の明記を 鈴木寛 東京大・慶応大教授
 民主党政権時代の2010年度、副文部科学相として高校教育の無償化を実現した。高校無償化は米国で19世紀、英仏独で第一次世界大戦後に実現した。日本は1世紀遅れた。大学に関しては(1)貸与型奨学金の希望者全員への給付(2)国公私立大学の授業料減免対象者の大幅拡大−−を行ったが、給付型奨学金までは導入できなかった。

 私が中高生の頃は、家が貧しくても「国立大学に行けば何とかなる」という共通認識があった。だが、1986年以降、国立大学の授業料引き上げが進む一方、授業料の減免者枠は増えず、低所得者層には国立大学も手が届かなくなった。親の年収と大学進学率には相関関係がある。

 高等教育は就職率に直結する。医療、情報、国際関連の雇用が増え製造業が減るという就業構造の転換が進み、高卒への求人が激減するなか、大学に進学したかどうかで生涯年収に差がついてしまう。

 さらに、親が子どもの学費を出せば、子どもは親の望む学部で学び、卒業後は親の望む就職を求められる。自分が学びたいことを学び新しい仕事を始める自由も侵害されかねない。親の時代の古い考えを押し付ければ、社会の発展を遅らせてしまう恐れすらある。

 教育は経済格差の固定化を乗り越える最大の力となる。少子化の時代、学ぶ意欲と能力がある子どもが力を生かせないのはもったいない。どんな家に生まれても、その子にふさわしい「学ぶ機会」を与えられるよう、社会全体で支援することが重要だ。

 教育無償化が憲法改正のテーマに浮上したのは、歓迎すべきなのかもしれない。私は安倍晋三首相よりずっと前から、教育を受ける権利をうたう憲法26条の拡充を求めてきたからだ。全ての人がその人に必要な学びを保障される「学習権」を憲法に明記したい。中高年世代や外国人も含め、あらゆる人への学習権を生涯保障したい。

 だが、政治の場で教育の充実を求める声は弱い。高等教育については、なおさらだ。「高卒で働く人が納めた税金を、大学で遊んでいる人に使うのか」。国会論戦や有権者との対話の中で、何度もこんな言葉を聞いた。こうして、国も個人も時代から取り残される。

 有権者が子どもの声を代弁できなくなっている。子ども自身に選挙権はないし、親の数も減った。子どものいる世帯は86年当時は5割だったが、現在はわずか2割だ。さらに、投票率は高齢者の方が高い傾向があり、大学進学率の低い地方の方が「1票の格差」の結果、都市部より議員定数が多い。

 高校教育の無償化は改憲を経ずに実現した。だが、有権者の高齢化が進み、教育問題に熱心な政治家も減っていく。教育権や学習権のように、多数決に委ねていては守りきれない基本的人権憲法で明確にしておく必要がある。憲法改正のような大きな動きに頼らなければ教育を国民的課題にするのは難しいのかもしれない。ただ、9条改正ばかりに焦点が当たり、改憲議論が政治化することが心配だ。純粋に教育について熟議が交わされるよう望みたい。【聞き手・尾中香尚里】


渡部昭男氏
すでに法律に理念はある 渡部昭男・神戸大教授
 憲法に規定がなければ教育の無償化ができないという認識は誤りだ。高校無償化は2010年度に実施され、現在は保育を含む幼児教育の無償化に向けた取り組みが検討されている。つまり、財政措置や法整備によって、無償化は拡充できるし、停滞もする。

 一方、憲法にある「義務教育無償」は国レベルでは授業料の不徴収、教科書の無償提供にとどまり、給食や修学旅行の費用など家庭の負担は相当なものだ。憲法に書かれたからといって直ちに完全無償化になるわけではない。国や自治体の施策を促すために、国民の総意として教育無償化の理念を高く掲げることは有意義だ。だが、それが憲法かどうかは別問題だ。

 国際人権A規約13条「教育への権利」に規定されている「初等教育の無償」「中等・高等教育の漸進的無償」に注目してきた。日本政府は条約を1979年に批准しながら「漸進的無償」の部分は留保し続けてきたが、12年9月に留保を撤回した。憲法改正を持ち出すまでもなく、日本は5年前から、段階的な教育無償化を進めることが義務づけられているのだ。

 そもそも教育無償化という言葉は誤解を生みやすい。子育てや教育に必要な経費について、私費負担を軽減し、公費負担を拡充することは、子育てや教育を社会全体で共同的・互恵的に営むことを意味する。単に「タダにすれば良い」と自己目的化し、当面の財源確保策や制度設計を政党同士が競い合うのではなく、公費教育の拡充によって社会全体を豊かにしていくという方向性が重要だ。

 教育無償化を進めるには、幼児教育から高等教育まで含めると4兆〜5兆円かかると試算されている。落ち着いた環境で話し合い、立場の違いを超え粘り強く合意の形成を目指し、知恵を出し合って難問に立ち向かうことが不可欠だ。

 だから、国論を二分するような憲法改正や、改正案に賛成か反対かを問う国民投票にはなじまない。むしろ弊害の方が大きい。安倍晋三首相の個人的願望から20年までと憲法改正期限を区切ったが、教育無償化が改憲宣伝の「露払い役」や「印象操作の具」におとしめられてはたまらない。

 今後、教育無償化の論議を進めるための手掛かりは既存の法律の中に見いだせる。一つ目は、教育基本法の4条「教育の機会均等」にある「経済的地位による教育上の差別の禁止」だ。国と地方公共団体に「経済的理由によって修学が困難な者」への「奨学の措置」を義務づけている。これこそ、誰もが合意しやすい優先策だ。しかも、経済的にゆとりのある階層や企業が税をより多く拠出して、困難層を支え、社会全体を豊かにしていく指向性が見て取れる。

 二つ目は、13年に成立した「子どもの貧困対策の推進に関する法律」だ。この法律は、子どもの将来が生まれ育った環境によって左右されることのない社会を実現するため、教育支援や経済的支援などを講じていかなければならないと定めている。理念に留め置くのではなく、教育無償化の段階的な実施を含めて、子どもの貧困対策を総合的に推進していくことが肝要だ。【聞き手・金秀蓮】


猪木直樹氏
まずは5歳児の義務化を 猪木直樹 全国国公立幼稚園・こども園PTA連絡協議会会長
 全国国公立幼稚園・こども園PTA連絡協議会には、全国にある国公立の幼稚園を中心に2381園が加盟する。公立幼稚園系では唯一の全国PTA組織で、統括を4年前から任されている。いつも会合のあいさつで触れるのが、「(先進国の集まりである)OECD経済協力開発機構)諸国の中で、日本は教育費にかける割合が極めて低い。特に幼児教育と保育の区別があいまいになっている感覚がある」ということだ。

 日本では長年、幼稚園は文部科学省、保育園は厚生労働省が管轄してきた。2006年から始まった「認定こども園」はその両面を備えているが、それぞれに公立と私立があり、方針もさまざまで、地域によって比率も異なる。まさに全国各地でバラバラの状態が続いてきた。基本的に「小学校入学前の子育ては家庭が重要で、地域がそのサポート的存在である」という古くからの考えが伝統的にあるからだろう。

 しかし、核家族化が進み、男女共同参画の時代になって、場合によっては0歳児から保育園に預けないと仕事ができない親が増えている。無垢(むく)の状態で生まれてきた赤ん坊が大人のまねをし、強い影響を受けながら育つ5歳までの幼児期の教育がおざなりになりかねない状態になっている。人格形成にとって極めて重要なこの数年をもっときちんとした教育方針の中で育ててゆく体制が不可欠だろう。

 そのためにも幼児教育の義務化が望まれる。これは私たちの協議会でも以前から国に要望していることだ。理想的には3歳から3年間としたいところだが、財源の問題もあるだろうから、まずは小学校就学前の5歳児を一律、義務化する。現実的に大半の5歳児が幼稚園や保育園、こども園に通っているが、義務教育とすれば各市区町村の教育委員会が小中学校と一連の行政の中で見るようになり、連携も進む。何より就学時の環境が統一され、1年生のスタートがスムーズに進むようになる。小学校にとっても望ましいし、公立と私立の園の足並みもそろうだろう。また、親も幼小が連携したPTA活動を通して互いに勉強し、情報交換をしながら学ぶことができる。

 政治の世界では「教育の無償化」が叫ばれているが、義務教育の対象を5歳児まで広げればおのずと無償化することになる。無償化対象は「高等教育か幼児教育か」で意見が分かれるが、現在の幼児教育は学習塾や習い事、スポーツクラブ……と、費用がかさむ時代になっている。地域に子供会が存在し、ほとんど金がかからずに育った私たちの時代とは全く異なる。その一方、親はまだ若く、収入も限られている。この年齢の子育てこそが最も大変なのだ。高校や大学になれば親の収入も上がってくるし、進路については個々の事情も異なる。やはり幼少期への支援こそが急務だろう。

 ただし、教育改革をせずに「無償化」ばかりが先行しても、やがて行き詰まってしまうだろう。義務化することによって、受け皿としての幼児教育機関、なかんずく公立幼稚園の環境を整備することが重要になってくる。【聞き手・森忠彦】

教育を受ける権利
日本国憲法

第26条

(1項)

すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

(2項)

すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

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 ■人物略歴

すずき・かん
 1964年生まれ。東京大法卒。旧通産省、慶応大助教授を経て参院議員2期(旧民主党)。鳩山由紀夫内閣の副文部科学相として高校教育の無償化を実現した。安倍晋三政権で文科相補佐官を務めた。

 ■人物略歴

わたなべ・あきお
 1954年生まれ。京都大大学院博士後期課程単位取得満期退学。鳥取大教授を経て2011年から現職。専門は教育行政学。大学評価学会事務局長。著書に「格差問題と『教育の機会均等』」など。

 ■人物略歴

いぎ・なおき
 1963年生まれ。本業は岡山県倉敷市玉島地区で123年続く呉服店青年会議所、PTAなどの地域活動を続け、2013年から現職。連絡協議会は設立(63年)から今年で55年目。子どもは2女1男。
    −−「論点 シリーズ憲法70年 教育無償化の道は」、『毎日新聞』2017年09月08日(金)付。

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