覚え書:「特集ワイド 米朝、対話しかない 朝鮮戦争に「従軍」の元東京・府中市議」、『毎日新聞』2017年09月21日(木)付夕刊。

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特集ワイド

米朝、対話しかない 朝鮮戦争に「従軍」の元東京・府中市

毎日新聞2017年9月21日 東京夕刊

社会一般
紙面掲載記事
社会

「80も過ぎてから朝鮮語の勉強を始めたんですよ。言葉が分からないと相手の気持ちも分からないからね」。三宮克己さんはそう語った=東京都調布市で、丸山博撮影
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 どうにもキナ臭い。再び朝鮮半島が戦火に見舞われる日がくるのではないか? そんな不安におびえていたら、あの朝鮮戦争に「従軍」した日本人がいる、と耳にした。91歳になったいま、声を限りに訴えるのだった。「戦争はいかん!」−−。【鈴木琢磨


仁川上陸作戦で接岸する船。艦砲射撃などで建物からは煙が上がっている
まぶたに黒焦げ死体 「日本は巻き込まれる」
 国連安全保障理事会の制裁決議に反発したのだろう。15日朝、北朝鮮はまた北海道上空を越える弾道ミサイルを発射した。韓国も対抗し、すかさず弾道ミサイルを試射。日本はといえば、全国瞬時警報システム(Jアラート)で避難を呼びかけた。米軍による軍事オプションもささやかれている。だが、67年前、半島は一触即発どころか正真正銘の戦争の真っただ中だった。ちょうど1950年のこの日、9月15日の未明、戦況を一変させる大作戦が決行された。

 「仁川(インチョン)上陸作戦です。米軍による占領下、日本人船乗りであるのに私はその作戦に動員されていました」。そう語るのは元東京都府中市議の三宮克己さん。50年6月25日、朝鮮人民軍が38度線を突破、3日後にソウルを陥落させ、南へ進撃した。マッカーサー元帥率いる米軍中心の国連軍と韓国軍はソウルを奪還し、形勢を挽回するため、占領された仁川への上陸を敢行。海上からの砲撃のあと、戦車揚陸艦(LST)の船群が接岸していく。全長100メートルの船には武装した米兵や10台ほどの戦車を積んでいた。船長以下40人の船員はすべてが日本人。そのなかに20代の三宮さんもいたのだ。

 「もしも反撃されていたら、どれだけ死傷者が出たことか。夜が明けて、おそるおそる上陸しました。トーチカ(防御陣地)をのぞくと、男が真っ黒になって死んでいる。朝鮮人民軍の将校でしょう。大柄な男でね。火炎放射を浴びて黒焦げなのに唇だけがピンク色でした。足もとに冊子が落ちていた。『山岳戦提要』。黒い死体に白い冊子。ぎょっとした。おれはいったい、何をしてるのか。人殺しの手伝いじゃないか。恐怖心と腹立たしさが交錯し、捨て鉢な気持ちで高ぶっていましたね」

 見れば、ぎょろりとした目に涙をためている。こんな船に乗っていたんだよ、と古ぼけたLSTの写真を見せてくれた。その手が小刻みに震えている。会ったのは駅前にある市民センターの多目的フロア。すぐそばから俳句同好会の談笑が漏れ聞こえる。いかにも平和だ。そして、記憶をたぐりながら語りは続く。「補給のために日本に帰ると、酒をガバガバ飲むしかない。港町・佐世保は景気がよくってね。焼け野原にバラックの飲み屋がいっぱいあった。でも、心がすさんでいるから、酒を飲んでも疲れるばかりで。喫茶店で当時はやっていた高英男の『雪のふるまちを』を聞いていました」

 ところで、なぜ日本人が朝鮮戦争に「従軍」していたのか? そこにはほとんど知られていない歴史があった。三宮さんは日本統治下にあった鎮南浦(チンナンポ)(現北朝鮮南浦(ナンポ))で生まれた。平壌を流れる大同江河口に広がる町だ。中学を出て、志願して日本海軍へ。半島南部の鎮海海軍基地で終戦を迎え、帰国後、引き揚げ者を運ぶ船の船員になる。LSTは船舶不足の日本に米軍が貸しつけていた。時代は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、朝鮮戦争が勃発すると、兵士や軍需物資の輸送にLSTが船員ごと使われた。その数2000人ともいわれている。

 「グアム島から小笠原への航行中でした。無電が入ったんです。『朝鮮で戦争が始まった。至急、横浜ドックに入れ』。4、5日で改装し、若い米兵200人ほどが乗り込んできた。日本で遊びほうけていたんでしょう。本国に帰るかのようにガラスケース入りの日本人形やギター、ちゃぶ台まで持ち込む兵士もいた。兵士らを半島の南東、浦項(ポハン)に送り届けました。バーイと陽気な声をあげ、上陸していった。彼らの部隊が壊滅したと知らされたのは、だいぶ後になってからでした」

 熾烈(しれつ)な戦いは続く。戦線は半島にローラーをかけるがごとく南へ北へ。北朝鮮の援軍として中国人民志願軍も参戦すると、退却する米兵を収容するため、生まれ育った鎮南浦へ向かった。「ちょっと街を歩きました。銀行だったところは国立柔道場、銭湯だったところは国立沐浴(もくよく)場の看板が出ていましたが、街並みは昔のまま。船に敗残兵を乗せると、護衛の艦隊が陸上に向け一斉に砲撃をはじめた。東洋一といわれた旧日本鉱業の巨大な煙突が破壊され、私のふるさとは焼き払われた。アイゴー、アイゴーと泣き叫ぶ声が寒風に乗って聞こえてきました」

 韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領の両親は避難民である。北朝鮮東部の興南(フンナム)に暮らしていたが、中国軍に包囲され、脱出を余儀なくされる。韓国で「興南撤収」と呼ぶこの作戦にも三宮さんは派遣された。「中国軍が山を越えてこないように一晩中、照明弾を打ち上げて山頂を照らし、その下で銃撃が続いた。逃げてきた米兵の服はぼろぼろ、手はあかぎれ。寒さに震えながら船内に入ると、楽しそうにジングルベルを歌っていた。クリスマスが近かったんです」。混乱のなか生き別れになった妹を案じる兄の思いを歌った国民的歌手、玄仁(ヒョンイン)の「頑張れクムスンよ」は、いまも懐メロの定番である。

 一進一退を繰り返し、53年7月27日、双方に膨大な死傷者を出して戦争は休戦となる。南北離散家族は1000万人にのぼった。日本に思わぬ「特需」をもたらしたものの、その陰で日本人が戦争に「動員」されていた史実は秘密とされた。「当時は集団的自衛権を認める憲法解釈の変更も、安保法制もないまま、ずるずると米軍に加担していた。いまはおおっぴらに米軍を支援できる。いや応なく日本は巻き込まれてしまう。そもそも朝鮮戦争は撃ち方やめの状態なんです。アメリカと北朝鮮が話し合うしかないじゃないですか。日本もアジアの平和のため、トランプ米大統領に戦争はいかん、と進言する気概を持たないと」

 だが、金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長は核・ミサイルを手放そうとしない。対話はできますか? するとあるエピソードを口にした。97年秋、金日成(キムイルソン)主席の喪が明け、金正日(キムジョンイル)氏が総書記になったころだ。「子供らのために粉ミルクを持って訪朝しました。夜、平壌の普通江(ポトンガン)ホテルに金正日さんから贈り物が届いた。中国・ウイグル産のハミウリ。こんな言葉も伝えられました。<われわれの直面している困難はわれわれの手で解決する。しかし困難なときに助けてくれた隣人の恩は忘れない>」。ちょっとほっとする。「そうなんだよ。息子も父のような思いを持ってくれていればいいが……」。護憲・反戦を信念に府中市議を7期務め、いまは妻と2人、老老介護の日々という。「戦争がどれだけ悲惨なものか、私はそれだけを伝えたいと思っています」
    −−「特集ワイド 米朝、対話しかない 朝鮮戦争に「従軍」の元東京・府中市議」、『毎日新聞』2017年09月21日(木)付夕刊。

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