覚え書:「寂聴 残された日々:28 稲垣足穂の机 奇妙な天才との出会い」、『朝日新聞』2017年10月12日(木)付。

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寂聴 残された日々:28 稲垣足穂の机 奇妙な天才との出会い
2017年10月12日


写真・図版
寂聴さんが稲垣足穂からもらった机=徳島県立文学書道館提供
 今年は稲垣足穂(たるほ)の没後40年にあたるそうだ。何かでそれを読んだ時、私はかつて書いた自作の『奇縁(きえん)まんだら』をひっぱりだして、稲垣足穂のページを開いた。この本は私が生きている間に会って多かれ少なかれ縁を結んだ人々の思い出話を書き集めたもので、全4冊の、重い本になった。一人一人の肖像を、横尾忠則さんが、いきいきとした筆で描いてくれたのが傑作で、文章の力より、さし絵の魅力で、人気がいや増してきたといってもいい。

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 横尾さんは、足穂のすっ裸に赤い褌(ふんどし)をした正面の立ち姿を描いている。足穂の顔は悲しさにたえられないような悲痛な表情をしていて、裸のこっけいさと、顔の悲痛さが、あまりにもちぐはぐなのが、何とも言えない不条理を感じさせる。足穂のおよそ非現実的な人間味の不思議さを、横尾さんの絵は申し分なく捉えていた。横尾さんもただ者ではない天才画家なので、足穂の奇妙さの中にひそむ天才を見抜く力があるのだろう。

 私が51歳で出家する前の年、折目(おりめ)博子さんという京都の作家から、足穂を紹介しようと言われた。折目さんは京大の作田啓一教授の夫人で、こつこつ小説を書いていた。色が白くよく太っていて、髪をおかっぱにし、派手な和服を着ているかと思うと、突然女学生のセーラー服で現れたりする相当変わった女性だった。彼女が生まれた時、岡本かの子はまだ生きていたにもかかわらず、自分ではかの子の生まれ変わりだと信じていて、自分の才能を認めない文壇はどうかしていると憤慨している。

 彼女の親の郷里が同じ徳島という縁で、いつの間にかしげしげ遊びに来るようになっていた。彼女は、川端康成からもらった手紙を表装して額にいれ応接間にかかげている。彼女がある日、突然、自分は足穂の唯一の女弟子だとつぶやいたので、私はひっくりかえりそうになった。「先生は気むずかしくて人嫌いだけど、私はたった1人の女弟子として可愛がって下さるの。かの子の生まれ変わりというのも先生のご意見よ」。ますます驚きで声も出ない。

 私を、博子さんは10日もしないうちに足穂の家につれていってくれた。伏見のお宅はどっしりした構えの明るい感じで、夫人の志代さんはひかえめで聡明(そうめい)そうなおだやかな方だった。昼前に訪れた無遠慮な中年女のあつかましさにもめげず、私たちの下げていったお酒をたちまち燗(かん)して手料理と共に出してくれる。足穂の天才を見こんで、仕事もなくなって呑(の)んだくれていた足穂を自分の家に引き取り、ずっと養っていられるという。

 「お幸せですね」と思わず言うと、にこにこして「はい、この世でめぐり逢(あ)うために私たちは生まれてきたものですから」と微笑している。

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 たまたまその頃、足穂は『少年愛の美学』で、かねて熱烈なファンだった三島由紀夫の後押しで、第1回日本文学大賞を受賞していた。夫人が賞金で立派な机を買ってくれたと言い、足穂は、それまで使っていた小学生の使うような小さな机を、私にその場でくれてしまった。夫人も「どうぞ、どうぞ」とすすめてくれるので、私はタクシーにつみこんでその机をもらってきてしまった。

 今、それは徳島の県立文学書道館に大切に保管されている。

 足穂が没したのは、1977年10月25日、享年まだ76歳であった。天才としては長く生きたというべきか。

 ◆作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんによるエッセーです。原則、毎月第2木曜日に掲載します。
    −−「寂聴 残された日々:28 稲垣足穂の机 奇妙な天才との出会い」、『朝日新聞』2017年10月12日(木)付。

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(寂聴 残された日々:28)稲垣足穂の机 奇妙な天才との出会い:朝日新聞デジタル